2006年11月の不定期日記 戻る 
不定期日記


■ 2006.11.28   根が生える

 こたつから出られない日々が続いておりますが、皆様いかがお過ごしでしょうか。この状態になると、こたつに入ったまま手が届く周囲半径約1メートル内にあらゆるモノが山積するので、非常に見栄えの悪いことになります。まあ、私の部屋の見栄えが良かったことなど、いまだかつてないのでいいんですが。

 『日本史を読む』 丸谷才一・山崎正和(中公文庫)(11/27)
 史学系硬派読書案内として面白かった。それにしても、任那日本府のあたりの話は山崎さんにして「きわどいところ」と言って濁すくらい、業界ではきわどい話なんですねえ。当時は朝鮮半島のほうが遥かに先進国だったろうし、半島から大量に支配階級の人間が渡ってきていて、直接的な支配関係はなくても縁故関係による間接的なコントロールはあったに違いないだろう。植民地と宗主国の関係が、実際には日本史の授業で一般的に習う関係とは逆転していた可能性が高いというのは、容易に想像がつくんですがね。


■ 2006.11.25   背水の陣とは聞こえがよいが

 本番が近づくとここはみっともなくも直前になって慌てふためくヘボ奏者のテンパリ具合をお楽しみいただくコーナーになるのが通例ですので(イヤな通例だな)、最近のネタ枯渇状態には逆説的にご心配いただいているかもしれませんが、ご安心ください。今回はここで騒げないくらいにテンパってただけです。

 いやもう、本番用のリードが何とか確定したのがやっとこさ先週で。いけると思ってたリードが練習で使ってみたらことごとく駄目で、楽器店に泣きの電話入れて目当てのリード入荷日を訊き出し、でもそれが本番一週間前だというから「うがああー」とか頭を抱え、自分で作るとか言うのは勝率が低すぎるので問題外、いやでもいつも使っている銘柄でなくても何か使えるのがあるかも…と藁にも(葦にもって言うべきですか)縋る気持ちでよろよろと渋谷の楽器店まで出向き、使えそうなものを絨毯爆撃的に買い占めて(もうこの時点で焦りまくってて判断力が鈍ってるから、多めに仕入れておくくらいの安全意識は経験上持っている)、ようやくどうにか使いこなせるのを一本確定。今回のポイントは「軽くて丈夫で小回りが効く」。日本車みたいだな。弦と木管前列の音程がやたらと乖離しているので、どっちにも合わせなきゃいけない中間管理職は大変なんですよ。

 のだめ16巻を団の人に貸していただきました。読んだと思ってたらどうやら15巻を抜かしていたようで、いきなりバッソンのポールがオーディションに出てくるのにどびっくり。そういや今回はのだめ効果でやたらと定演に問合せが多いです。ベト7はのだめで一気に市民権を獲得しましたね。でもウチの団は基本的にコミックバンドですけど、ベルアップはやらないと思いますよ。多分……。


■ 2006.11.24   利便性

 の問題からも、はてなに一本化しようか迷っているところなんだが、何となく退路は複数確保しておきたい非定住民気質。

 今頃ですがイアン・ボストリッジのリサイタル。(11/14) 東京オペラシティコンサートホール。
 プロモーション路線は「お耽美」でしたが、実際は引きこもり系壊れ路線でした。こう書くとえらく印象が悪いですが、実際は素晴らしかったです。内省的で文学的、と言うべきですか。オペラのようなこれみよがしで仰々しいパフォーマンスは性に合わない、と本人が言うだけあって、非常に控えめな、しかしすみずみまで神経の行き届いた歌い振りでした。歌唱自体に危なげはないのに何となく危うげな雰囲気を漂わせる。演目はシューベルトの『冬の旅』第一部とブリテンの『冬の言葉』。いやもうバリバリな文学趣味。シューベルトは期待通り首までどっぷりロマン派でしたが、初めて聴いたブリテンは何と前衛で、残念ながら価値がわからなかったわたくし…。しかしこの演目と歌い振りに、この人は絶対にシューマンが良いはずだと確信し、HMVで注文してみたら品切れ廃盤だった。ショックー。

 『よしきた、ジーヴス』 P.G.ウッドハウス/森村たまき 訳(国書刊行会)(11/22)
 ジーヴスの悪辣さに磨きのかかったシリーズ第二弾。ダリアおばさん好きだなあ。ガッシーの表彰式のシーンは「かつて英語で書かれた最も滑稽な三十ページ」と評されたそうですが、私個人的には第一弾の牧師説教レースに軍配であります。思うにこのシリーズ、本国で刊行されていた頃にはシリーズもののドラマのように楽しまれてたんじゃないだろうか。所謂『渡鬼』のような安定したマンネリ感とキャラ立ちの絶妙なバランス感覚。映画じゃなくていいから、これ是非ドラマ化してくれー。ダリアおばさんはスーザン・サランドン、ガッシーはノア・テイラー、マデライン・バセットはクリスティーナ・リッチでお願いします。


■ 2006.11.17   レーゾンデートル

 他にもいろいろ書きたいことがあったはずなのに、何だか面倒くさくなってきた。(ここの存在意義が……)

 『白い果実』 ジェフリー・フォード/山尾悠子・金原瑞人・谷垣暁美 訳(国書刊行会)(11/13)
 ここまで主人公に全く共感できないまま、それでもぐいぐい引き込まれる小説は初めてだ。あとがきで金原氏が書くように、これは文体の勝利です。よくよく考えるとかなり荒唐無稽な世界観、笑える人物造形にエピソードばかりなのだが、山尾悠子マジックでジーン・ウルフを彷彿とさせるようなゴシック・ファンタジーに仕上がっている。奇矯な独裁者が支配する体制に文字通りヤク漬けでどっぷり漬かっていた主人公が、だんだんと薬のもたらす幻想から醒めていく過程の描きかたが実に巧妙。

 『イスラム世界はなぜ没落したか――西洋近代と中東』 バーナード・ルイス/臼杵陽 監訳/今松泰・福田嘉昭 訳(日本評論社)(11/17)
 中東問題に目覚めたわけでは毛頭なく、単に下世話な興味から読んでみました。前に読んだ池内恵の『書物の運命』の中で取り上げられていた曰くつきの本。というのはこれ、各紙の書評にも紹介されたような話題の本なのだが、本文の前に著者を「アメリカ・ネオコンのイデオローグ」と決め付けるような監訳者の解題が付されていて、各紙の書評もこの解題の是非を巡ってかなり反応が割れたというもの。ちなみに池内恵は「原著者が反論できないような状態で一方的に著者及び本の内容に否定的な解題を本の冒頭に付すのはフェアではない」と解題には不支持の立場です。結論から言うと、私も不支持です。そもそも訳者の意見が全面に出た長文の解題が本の冒頭に置かれることには純粋に違和感があります。本の内容に対してどういう印象を持つかは全面的に読み手側の問題だ。本文の前に先入観を与えるようなものを置くべきではないと思う。ましてや訳者がそういうことをしでかすとなると、私なんかは訳文そのものにもフィルタが掛かっているんじゃないかと不信感を持ってしまう。

 というわけで、問題の解題は読まずに先に本文を読み、後から解題を読んでみました。内容は講演録をリライトしたものらしく、構成があまり整理されていない感じですが、初心者向けの概論としては比較的読みやすく書かれていると思います。ルイス氏の実際の言行を知らないので、実際にネオコンのイデオローグなのかどうかわかりませんが、書いてある内容は至って常識的な気がする。「イスラム世界は長らく自分たちの文化の優位性にあぐらをかいているうちに西洋の台頭を許した」、と書くのがそんなに問題なのかしらん。これ、そのまま単語を入れ替えると「アメリカの自動車産業は長らく自分たちのシェアの優位性にあぐらをかいているうちに日本車の台頭を許した」とかになるんだけど、こういう言辞も問題? 経済じゃなくて文化だから問題なの? 

 監訳者は本書はハンチントンの「文明の衝突」論を読めばさらに理解しやすくなると言っていますが、著者は「文明の衝突」についてなんか書いていないと思います。むしろ絶え間ない水際での紛争と人や文物の行き来による情報交換によって、イスラム世界のどこが西洋の影響を受け、どこが影響を受けずにいたかが書かれている。門外漢の私でも、文明が全面的に衝突して、一方が他方を一方的に圧倒することなんか有り得ない気がする。あるのは水際での紛争と、じわじわとした文物情報の交換による浸透だ。影響は必ず相互に作用し、どちらかが無傷ということはないのだ。「イスラム世界は自分たちの発展に関して責任転嫁をやめるべきだ」という著者の意見が全面に出ているのは終章だけで、おそらく監訳者が西洋(というかアメリカ?)中心主義として反発を覚えたのはこの部分なんでしょうが、まあ誰しも自分の価値基準で意見を言うのは当然でしょ。本なんて著者のスタンスによってある程度の偏向は織り込み済みで読むもんだと思ってた。

 あ、なんかつい長々と書いてしまったよ。とりあえず、この本に限らずあちこちで見かけますが、impactを軒並み「衝突」って訳すのやめませんか。これ、物理的な衝突や衝撃を意味する場合以外、「影響」くらいの意味だと思う。わざわざセンセーショナルな表現を選んで煽っているように感じるんですが。

 ちなみに本書の原題は"What Went Wrong? --Western Impact and Middle East Response"。それがこういう邦題になっちゃうっていうのも何だかなあ。

 14日にイアン・ボストリッジのリサイタルにも行って来たんだった。でも今日はここまでで力尽。


■ 2006.11.12   山積

 メモ程度の日記も溜めると億劫になるな。風邪っぴきのくせに遊び倒してて現在の部屋の惨状が目も当てられない。

 東京二期会公演『コジ・ファン・トゥッテ』 日生劇場(11/5)
 実はコジを生で観るのは初めて。話の内容からいってコメディタッチなのかと思っていたら、宮本亜門の演出はセットと衣装を極力シンプルにして、あまりこれ見よがしなコメディ色を排した感じだった。その分、歌と音楽に集中できると言えばいいんでしょうが、私は思いっきりドタバタにやって欲しかったなあ。しかし今回の、特に女声のキャスティングは良かった! フィオルディリージ役の林正子は、前回『皇帝ティト』でのヴィテッリアが良くて(今回チケットを取るときもそれで林さんの出る日程にしたくらい)気になっていた人ですが、柔らかくて伸びのある、それでいて適度に(って褒めてます。あまりガツンガツンパワフルなソプラノって苦手なもので)パンチのある声が素晴らしい。ドラベッラ役の山下牧子がまた似た声質で、ちょうど林さんの声をワンランク音域を落としたような案配で、この二人のデュエットがとても綺麗にハモります。男声のほうも声はきちんと出る人ばかりで(いやホント、この人ホールで歌うにはちょっと…ってくらい声が届かない人が結構いる)、アンサンブルは全体にとても美しかったのですが、個人的にあまり好きな声質の人がいなかったな。

 あんまり気に入って、林さんが出る年末の第九のチケット取ってしまったよ。「年末に第九なんて年明けのVPOニューイヤーコンサート並みにスノッビーでベタ〜」とか言ってた私が。この節操なし。

 お休み取って高尾山にハイキングに行ってきた。(11/9)
 高尾山も実は初めて。東京育ちの人は子供の頃漏れなく遠足などで行ってて今更って感じでしょうが、初心者で運動不足のモヤシには手頃でいいコースです。天気も雲ひとつない絶好。しかし紅葉を(少しは)期待して行ったのだが、一体何この青々とした緑は(笑) 同行&案内してくれた職場の同僚と「まるで夏山みたい!」とか言いながら、勢い余って山頂から奥高尾を抜けて相模湖にまで歩いてしまった。当初は京王高尾山口から入って山頂で引き返す予定だったのを美女谷温泉に惹かれて予定外の進路変更をしてみたのだが、行ってみると美女谷温泉はお休み。これだけがこの日の痛恨だった。JR相模湖の駅前でビールと焼き魚定食で乾杯して締めました。案の定、翌日は両足くまなく筋肉痛。


■ 2006.11.3   非を認めない人

 というのはどこにでもいるものだが、こうも数が多いと私はアメリカかヨーロッパででも仕事をしているんじゃないかと錯覚しそうになるものの、半端な以心伝心ともたれ合いを期待する甘えの構造がしっかりのさばっているあたり、ここは紛れもなく日本だ。しかしファイルや書類を配り間違えようが客先への送付書類を送り間違えようが「そうですか」の一言で済ませる神経には恐れ入るけれども、今回は許しがたい。結果的にクリティカルではなかったにしろ、期限を見落としておいて「そうですか」はないだろう。問題の問合せレターについて、どうしてもっと早くに持って来なかったのかと努めて穏やかに訊いてみたところ、関係する案件のファイルを探していたと言うのだが、それは嘘だ。そもそも問題のレターへの返事がないために先方が送ってきた二通目の督促レターをまず私のところに持ってきて、ファイルを見ないと前後関係がわからないと私が言ってはじめて探し出したんだから。挙句の果てには現在の管理体制の愚痴まで零しはじめて、まるで環境が悪いと言わんばかりだが、「んなこたどうでもいいよ、少なくともこの件はレターを握り潰したアンタが悪いんだろ」という一言は面倒くさいので言わないでおきました。こういう人に限って個人的感情で仕事の質が激しく左右されるしな。

 『比類なきジーヴス』 P.G.ウッドハウス/森村たまき 訳(国書刊行会)(10/30)
 訳者があとがきで言うように、この服飾センス最悪でお人好しなバーティー君は是非ともヒュー・グラントにお間抜けに演じてもらいたい。真っ赤なカマーバンドやら紫の靴下やら明るい水色のスパッツやらをつけてステッキを振り回す姿を想像すると堪りませんね。顔色一つ変えず主人をすら陥れる邪悪なジーヴスはビル・ナイでお願いします。






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