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桜の園
■ 2006.1.29 (日記より移動)
『桜の園』 アントン・チェーホフ/小野理子 訳(岩波文庫)/"The Cherry Orchard"/Anton Chekhov/TIP


 英語上演の芝居を観に行くというので、原作(『桜の園』 チェーホフ/小野理子、岩波文庫)を当日上演ぎりぎり前まで掛かって泡食って読むという付け焼刃っぷり。しかし予習したおかげで芝居はばっちりわかり、かつ非常に楽しめました。話の筋がわかるっていうのは芝居を芝居として楽しむ最低条件ですね。そして脚本は脚本としてではなく、上演される芝居でこそ一番その良さがわかるという超基本事項を再認識しました。チェーホフって何だか辛気臭ーいなどと一作も読んだことがないくせに思っていたんだけど(ロシア人作家っていう先入観ですかね)、どこか滑稽味の漂うやさしい芝居でした。そしてコメディですね。あからさまなドタバタではなく、会話のやりとりとか、ちょっとした間の取り方にくすりと笑えるような、面白うてやがて哀しきといった種類の。実際には悲劇として解釈した上演が多いようで、それに作者は「コメディだ」と言い張って必死に抵抗したらしいけど、それも群像による人物造形が多面的で、かなり解釈の幅を受け入れられる作品だからかなあと思う。

 今回の芝居もコメディ仕立てという解釈で、しかもロシア色を徹底的に排した演出で面白かった。女主人公ラネーフスカヤはパリかぶれの能天気で軽薄そうなセレブのマダム、その兄貴のガーエフは身なりの良い紳士だけど実務には使えなさそうなお飾り重役といった風情、ロパーヒンはニューヨークにでもいそうな派手なスーツの成り上がりエグゼクティブ、不思議の国のアリスみたいな可愛らしいアーニャ、キャリアウーマン風ワーリャ(でも実際は使えない)、ヒッピー風のシャルロッタ、80年代風ファッションで固めたちょいダサ・ミーハー女子な小間使いドゥニャーシャ、老従僕のフィールスが老女中に変わっていたのが原作と一番違うとこですか。台詞までは変えていないようだったけど、それも英語だから、舞台がロシアだとほとんど意識させない。

 何が良かったと言って、この劇に出てくる登場人物は女主人公ラネーフスカヤを筆頭にほぼ全員、非常に要領の悪い、時代錯誤な、所謂使えない人々なんですが、それがおかしみを漂わせつつ、それぞれそれなりに愛すべき人物として描かれるところ。実際、原作を読んだとき、ラネーフスカヤのアホさ加減に呆れ果てて感情移入するどころじゃなかったのが正直なところなんだけど、その彼女がとてつもなく魅力的に見える瞬間がある。台詞に心打たれるときがある。例えば第二幕の罪の告白、第三幕のトロフィーモフとの言い争い。はっきり言ってどうしようもない馬鹿女だと思うんだけど、その彼女をそれでも愛すべき人物として描いたところが凄い。それまでの世間知らずで軽薄なマダムから一転してしみいるような台詞を聴かせた今回の女優さんも素晴らしかった。これがあってこそ、第三幕の最後、ほぼ何の手も打たないまま自分の思い出の屋敷が競売で人手に渡って泣くラネーフスカヤに、娘のアーニャが語りかける台詞が感動的に響くのだ。

アーニャ:ママ! ……ねえママ、泣いていらっしゃるの? 大好きな、優しい、素敵なあたしのママ、あたしはママを愛してる。そしてママを祝福するわ。桜の園は人手に渡って、もう無くなった。その通りよ。でも、泣かないで。ママの人生はまだこれからだし、ママの美しい心だって、そのままなんだもの……。御一緒に、ここを出て行きましょう! あたしたちの手で、ここより立派な新しい園を作るわ。ママはそれを見て、おわかりになる――静かで深い喜びが、ちょうど夕方の太陽のようにママの心に降りてくるのがね……。そしてにっこりなさるでしょう。行きましょう、ママ、行きましょう!

 とかなんとか人を感動させておきながら、最後の最後で屋敷を競売で買い取るために遠縁の伯爵夫人から借りたお金をそのまま持ち逃げしてパリにとんぼ帰りに高飛びするんだから、やっぱりこれはコメディなのです。大体、パリに愛人と駆け落ちして長い間帰って来なかったくせに(しかも愛人と破綻していなければおそらく全く帰って来なかったに違いない)、帰って来たら来たで「あたしの思い出の桜の園!」とか何とか大袈裟に抜かしてるんだから、まあ調子の良い人々なわけです。そういう皮肉を効かせつつ、階級社会の崩壊によって招かれたより悲惨な状況も示唆しつつ、あらゆるステロタイプを高々十人程度の登場人物で描ききった、素晴らしい完成度の作品でした。

 原作の翻訳もとても秀逸で、しかも巻末の解説がこの芝居の魅力をほぼ語り尽くしていると思います。しかし、従来の訳を改訳した箇所に煩いほどの注を施しているのは、よほど新訳に文句をつける人が多いんだろうね。今回の上演で英語の台詞を聞く限り、ほぼ全てこの改訳版と同じ解釈だったので、おそらく小野さんの解釈で合っているんじゃないかと思われます。

 ちなみに同僚はピーシク役で、借金まみれの貧相な酔いどれ地主を好演してました。(これ褒めてますよ勿論!)


(2006.2.6)



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