イゼルローンのタコ部屋。

After Hours

 宇宙を飛んでいると、あるとき不意に悟るときがある。多分、ある程度飛んだことのあるパイロットは皆そうだ。それがいつ、どんなときかは人によって違うだろうけど。間一髪、敵艦の主砲から逃れたときかもしれないし、暢気な哨戒任務で目の前の単調な闇にふっと意識が遠のいたときかもしれない。でもとにかく、あるとき、突然にわかるんだ。ああ、俺はここで死ぬんだな、って。

 そうするとだ、不思議なことにふっと楽になるんだな。安心するというか。それまでは誰だって出撃の瞬間は怖いもんなんだよ。次はもう駄目かもしれない、死ぬかもしれない、死ぬにしたっていっそ一撃で木っ端微塵に撃墜されればいいけど、半端に損傷食らって気圧低下やら爆発やらの恐怖で、想像するのもおぞましい最期を味わわされるかもしれないって、手が震えるくらいにね。

 でも一度あの不思議な平穏を味わうと、どうしてか落ち着くんだ。で、まあいいか、って思うんだな。ここでたった一人で、誰にも煩わされず好きなことを考えながら、最後の決定権を――何せ操縦桿は俺たちだけのものだ――自分の両手で握っていられる状態ならってね。俺たちは遅かれ早かれ軍の戦死者レコードに一行追加されるだけの存在だ。だけど、何を考えて、どうやって死ぬかは俺たちだけのものだ。

 だから、あいつが帰って来なかったとき、畜生、先を越された、って思ったね。



「なるほど。で、俺の質問の回答は?」
 十分な沈黙の後、アッテンボローはそう言ってカウンターの隣に座った男を見やった。質問、とその男――ポプランは呂律の怪しい口調で鸚鵡返しにした。背の高い腰掛けに微妙なバランスで辛うじて引っ掛かった状態で、カウンター上にほとんど横倒れに寝そべるように頬杖をついた姿勢のせいで、アッテンボローには彼の褐色の髪のつむじあたりしか見えない。いつもはこの男を軽薄にも洒脱にも見せる赤みの強い癖毛が、店の抑えた照明に照らされて、今日は濃く落ち着いた色に見える。
「これから、どうするんだ、と訊いたんだ」
 辛抱強く、重ねて質問した。
 ポプランは返事をせず、頬杖をついただらしない姿勢のまま、右手に握ったグラスを弄んでいる。砂時計かモビールを弄る子供のような手つきで、ゆっくりと左右に揺らして、氷の間を透き通った琥珀色の液体が移動するのが珍しくて、あるいは美しくて仕方ないとでもいうように。
「退役するとは訊いたが? 共和政府が打診した役職も全部蹴ったそうだな」
 酒を飲んだときのほうが、まだしもまともな発言をするからと思ってこの機会を狙ってみたが、ものには程度というものがあるな、とアッテンボローは考えた。
「秘密」
 もはや期待するのを諦めた頃に、くすくすと笑いを含んだ返答があった。
「だって教えたら、またそのノートに記録されるんでしょ?」
「この俺の回想録に登場できるなんざ、光栄だと思わないのか」
「中将お得意の非文学的修辞でねえ」
「ああわかった。お前さんのことなんか一言一句たりとも書いてやるか」アッテンボローは手元に広げた愛用のノートを手の甲で叩いた。ポプランはけらけらと笑い声をあげた。「墓碑銘を楽しみにしてろ。うんと楽しいやつをつけてやる」
「そいつも御免です」
 ノートを畳んでアッテンボローは立ち上がった。何も収穫がない以上、潮時だった。傷を舐め合うのはアッテンボローもまた望まないところだった。
「おや、宵っ張りの中将が」
 はじめて褐色の頭が持ち上がって、意外そうな声を上げた。
「明日もあるし、ちょっと街を歩いて酔いを醒ましてから帰る」
「寄る年波には勝てませんかね?」
「いや、久しぶりにちょっと街を歩いてみたくてね」
 揶揄を素直に流して店員から上着を受け取る。
 その様子を緑の眼を眇めるようにして少しの間眺めていたポプランは、ふんと鼻を鳴らしただけで元の姿勢に戻った。まるでふて腐れた子供のような姿勢だとアッテンボローは思って口元を緩めた。
「じゃまた」
 男はこちらを向きもせず、ただ黙って右手を頭越しに持ち上げた。誘われるようにその手を握って、その乾いてざらついた手のひらの感触を記憶に浸みこませようと不意に思った。そういえば握手なんかしたのは初めてだった。これからもすることは二度とないだろう。
 店のドアを押して、頬に受ける夜風にふっと安心する自分を感じた。今日はどこの酒場もどんちゃん騒ぎだろう。和約成立のニュースは、十分に振り回した挙句、景気よく栓を抜き飛ばしたシャンパンのごとく街に降り注いだものだ。見知った顔がたむろしているだろう場所も容易に見当がつくけれど、今夜はそこに混じる気にはなれない。死にぞこなった者たちは、自分の死に場所を探すのに忙しいのだ。それこそが生きることに他ならないのだろうけど。
 アッテンボローは光のまたたく夜の街を、ゆっくりと歩き出した。



(2006.3.20)




TOPMAP

巽堂/Tatsumidou