<TOP  本にまつわるもろもろTOP  >>よしなしごと01 

よしなしごと01
■ 2001.7.18 『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』 村上春樹

 何度読み返してもわからない小説というのがある。
 作品世界が理解できないとか感覚が合わないとかそういうことではなくて、で結局この話はどこに落ち着いたわけ? ことの顛末ってどうなっちゃったわけ? という基本的なところが何度読んでもわからない。
 わからないから気になって何度も読んでしまう。わけもわからないまま何度も読めるからには、きっと私はその作品が好きなんだろう、と逆説的に考える。

 村上春樹の作品でまともに読んだのは『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』だけだ。『羊をめぐる冒険』とかも薦められて読んだけど、内容の記憶がない。(読んだはずなのにさっぱり記憶のない本って結構ある。ときどき私って記憶障害があるんじゃないかと真剣に思う・・・)『ねじまき鳥クロニクル』もあの目次のつけ方が妙に好きで読もうかと思ったが、ベストセラーになっている間はどうも食指が動かないなーなどと天邪鬼を言っているうちに読みそびれてしまった。

 この本屋で店員に聞くのが億劫になるような長いタイトル。なんとも挑戦的だ。言葉の選び方が巧いと思う。
 「世界の終わり」と「ハードボイルドワンダーランド」の二つの物語が同時に進行して、って私はこういう展開に弱い。話が入り組んでいるほどわくわく感は増すのだが、反面最後まで入り組んだ話がわからないまま終わるケースも多い。で、これも微妙に二つの世界の噛み合い方がわからないまま読み終わってしまった。
 しかし読んでいる間、映画を観ているようなドライブ感があった。
 とにかく話が自分自身でわかっていないので感想も書きづらいのだが、この小説には異次元空間に触れるような違和感があって、どうもそれが好きなんじゃないかという気がしてきた。ポケットの中で小銭を数えるって一体どういう職業? とか獣にはどういう意味があるんだとかやみくろって何だとかいろいろ引っかかりながらも、とりあえず話はどんどん進んでいってしまうという感覚。
 そして結局引っかかったまま終わって、ああやっぱり最後までわからなかったなあと言ってもう一回読むというわけ。
 これってやっぱり盲目的な愛ですか。それとも私がマゾなだけですか。

2001.7.18 『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』村上春樹(新潮文庫)再読


■ 2001.7.4 『夏と花火と私の死体』 乙一

 夏、花火ときて、この本を連想した。はじめて読んだのも、去年の今くらいの季節だった。夜になっても風もなく、生ぬるい空気が微動だにしないなかを歩いて帰宅しているとき、不意にこの小説のことを思い出し、家についてから読み返してしまった。

 タイトルだけでも、何がどうとも言えない違和感にひたされる。なんということもない字面なのに。しばらく眺めて違和感の正体が『私の死体』というくだりに潜んでいることに気づく。私の死体。こんな視点があるだろうか。
 違和感は読み進めている間も持続する。なぜなら、一部始終は死体となった少女によって語られるからだ。それは回想でもなく亡霊でもない。生きている時間から死体となってからの時間、少女の意識はただ淡々と連続している。そしてひどく日常的な表現で、どこにでもありそうな田舎町の平凡な夏の情景を綴っていく。それが何とも言えず居心地悪く、うすら寒く、怖い。
 ゆっくりと、訥々と語られるだけに、考える時間がたっぷりあるはずなのに、物語を支配する生ぬるく重たい夏の夜気に絡め取られたようにぼんやりと読み進めてしまう。そして、いつのまにか少女が自分に乗り移ったかのように感じる。
 著者は視座、視点というものの魔力を知っている。

 「全世界を変えるにはある一点を変えるだけで十分である」(『鏡の影』佐藤亜紀)

 今いる世界を構築しているのは物質でも時間でも空間でもなく、視点である。ある日突然くるりと視点が翻って、世界が変わる。

2001.7.4 『夏と花火と私の死体』乙一(集英社文庫)再読



■ 2001.6.28 『台風の眼』 日野啓三

 日野啓三の文章は静かだ。激することも流されることもなく、ただ淡々と記されている。引っ掛かりはない。流麗という感じではないが、ゴツゴツとした抵抗感はない。
 克明な情景描写のなかに、強烈なフラッシュバックのように突然イメージが浮かび上がる。戦時中の京城。敗戦直後の東京。ソウル。サイゴン。映像的なのだが、色彩的ではない。音のイメージもない。まるでモノクロの無声映画のようである。眼前を確かに景色は流れていっているのだが、それは何か自分とは別世界の出来事をぼんやりと眺めているような気分になる。
 主観と客観が入り混じった視点、と最初感じたが、途中で違うと思った。主観も客観もない。作者は一歩も動いていない。年月が流れ、周囲は凄まじく変転したかもしれないが、自身は依然として気圧の低い穏やかな嵐の中心からものを見、感じ、渦巻く言葉を吐き出している。それは、作者が死に直面する病を患った後であるからこその、透明な視点だろうか。
 冒頭のっけから登場するゴーストは、第二の自分、ドッペルゲンガーのようだ。見たものは命永くないという迷信を思い出す。
 走馬灯は時系列では流れない。強烈なイメージだけが泡のように沸き立って結晶した。そういう印象の文章だった。

2001.06.28 『台風の眼』日野啓三(新潮文庫)再読



■ 2001.6.24 『狐狸庵閑話』 遠藤周作

 もとはと言えば、先生のお作は高校生のとき半強制的に読まされた『沈黙』くらいしか読んでいなかったのが敗因だ。

 まあ、『沈黙』に関しても、私はどうも変な読み方をしていたみたいで、同時期に読んだ友人が大泣きして感動したと言っている隣で、私は主人公の一挙手一投足に息をつめてハラハラドキドキしていた。この後この人どうなっちゃうんだ? この先この国はどうなっちゃうんだ? という、サスペンスものを読むノリに近かった。少なくとも読んでいる最中はそうだった。勿論サスペンスで片付けられるような作品ではなく、読後しばらくテーマが身体になじんでくるまでぼんやり呆けていたが。
 もしも自分なら、という仮定ができなかったところに原因があることはわかっている。私なら、拷問にかけられる前に、確実に踏絵を踏んだだろう。
 命を賭けられるほどの信仰を持たない自分の精神に寒々しさを感じると同時に、ここまでの悲惨な状況に対して、現実に救いがもたらされなかったという事実を、信仰を持つ人々はどう解釈するのだろうと、反面意地の悪い見方をしてしまう。
 でも、狐狸庵先生は、そんなことは先刻承知だったのだ。
 先生自身にも、私にも、誰にでも当てはまるだろう、ごく普通の、弱い一人の男に、精神と生命を左右する選択が課されたとき、彼はどうするのか。信仰を捨てる悲しさも、救いのない不条理もすべて承知の上で、先生はただそれだけを淡々と描きつづける。心頭滅却すれば火もまた涼し、思想・信仰のためには命も捨てるなどといった大層な信念をお持ちの御仁はお呼びではないのだ。

 それはともかく、先生の代表作『沈黙』をわりに冷静に読んだ私も、『狐狸庵閑話』を読み始めて椅子から転げ落ちかけた。
 これは一種の詐欺じゃないか? まさか、『沈黙』のほうが世を忍ぶ仮の姿で……いやいやそんなはずがない。数々の文学賞を受けたかの先生の正体がコレなんてこと……いやしかしこの堂に入ったぐうたら奇矯ぶりはまんざらカモフラージュとも……
 今ごろになって悩む私も私だが、先生も先生だ。大フェイントくらって顔からすっころんだ気分ですよ。

 先生の言葉はやさしい。『古今百馬鹿』の文章は、柔らかい関西弁とどこか懐かしい江戸言葉がちゃんぽんになっていて、巧い講談を聞くように心地よいリズムがある。先生の大法螺はいい加減ですぐに底が割れるけど、どこか憎めない。『現代の快人物』に登場する人々はみんな胡散臭くて、快人物もとい怪人物じゃないかと思ってしまうが、なんだか不思議な可愛げがあって、適当に泳がせておいてあげたくなる。というか、先生自身も登場しているではないですか。まったく……

 いえ、それでも私は先生が大好きです。

2001.06.24 『狐狸庵閑話』遠藤周作(新潮文庫)読了



■ 2001.6.16 『戦争の法』 佐藤亜紀

 ある作家の作品を好きになるとき、私が夢中になるのは本当はストーリーでもなく登場人物でも実はなく、その書き手の文体だということには、昔からおぼろげに気づいていた。
 はっきりと自覚症状が出てきたのは、いくらかは自分の自由になるお金が出来て好きなように好きな本を買えるようになった大学生の頃からだと思う。
 勿論、表紙を見て、中をぱらぱらと見て、帯のうたい文句を見て、邪道な読者なので時には立ち読みの段階であとがきや解説を読んでしまってから、レジに持っていくパターンがほとんどではある。ただ、中身も見ず、ただその作家だというだけで無節操に買う場合もある。今のところ、私をこの行動に走らせる書き手は佐藤亜紀と杉浦日向子、中野美代子の三氏だ。
 極論すれば、ストーリーはもはやどうでもよいとさえ言える。面白いに越したことはないが、面白くなくても一向に構わない。そもそも、この方々の作品には、粗筋を簡潔に要約できるようなものはない。病膏盲に入ったファンとして、人に紹介するときにうまく表現できなくて困り果てるのが常だ。
 そんな作品をなぜ最後まで夢中になって読めるのか。それが文体の力だと思う。その作品を貫く強力なスタイルがすなわちその作品の世界を形作るのだろう。

 で、佐藤亜紀。この方は作品ごとに文体を変えない。変えなくてもなんでも表現できる文体なのだ。
 どこがどうとは、ここで簡単に表現できない。高々私が簡単に説明できるような問題であれば、作者が原稿用紙に何百枚もの作品をものする必要はないのだ。ただひとつ感じるのは、全作品に共通する、「語る」というスタンスだ。ときにジャーナリスティックなほど正確無比で硬い表現でいても、それはまぎれもなくひとつの物語だと感じる。

 どの作品も大好きなのだが、一番に推すとすれば、『戦争の法』を挙げる。一瞬、話の展開から井上ひさしの『吉里吉里人』を連想したが、読み進めるとまったく質の違う物語だと気づく。哲学論からドタバタまで。それぞれ一癖も二癖もある登場人物が、硬くて辛い独特の文体のなかで物語の枠を破るかのように動き回る。
 伍長にはかなり傾倒したし影響も受けたが、現実的には日和見を人生の師とすべきだろうかと考えている。


■ 2001.6.4 『すべてがFになる』 森博嗣

「あの痕跡を消すことだって可能だったのよ……。でも……、私は、誰かには気づいてほしかったのね……。きっと……。貴方のような方に……、犀川先生」

 理系に進学したかったのでなかなか認めがたかったのだが、どうやら自分は骨の髄から文系に出来ているようだ。
 文字や漢字はよく憶える。好きな文脈や言い回しは、脳裏に残像が残るように記憶に残る。逆に数字の記憶力は壊滅的なものがある。まず、自宅の電話番号をよく忘れる。郵便番号も自宅と実家と親戚宅でよく間違える。暗算が苦手なのは、このせいではないかと最近になって思い当たった。

 この小説では、登場人物のほぼ全員が理系人間だ。主人公の西之園萌絵などは3桁の乗算がお茶の子、あみだくじは2秒もあれば見切るという計算の速さで、電卓に頼り切っていまや四則演算も怪しい私とはまったく正反対の人種だ。
 それにも関わらず、「理系ミステリ」という触れ込みで有名なこの小説だが、不思議と「理系」という壁を感じなかった。開き直って文系に進んでからは、それまでの反動か、計算と聞くと寒気がする私だが、作中の登場人物が自分とは明らかに違う、時には想像もつかないような論理で動くのを追うのが面白くてたまらなかったのだ。
 彼らは彼らの思考で行動する。理系・文系というのは、思考の大まかな傾向というだけで、誰もが自分の論理で行動し、それは万人でそれぞれ異なるのだ、という当たり前のことに思い当たる。それが、その人の生き方だ、ということもできる。
 行動は思考なり。人間は考える葦である。

「貴女は誰ですか?」

 冒頭の萌絵と真賀田博士の問答は哲学的ですらある。飛躍する論理についていくのは刺激的だ。そういう意味で、この小説はスリリングな名台詞に満ちている。

「自分の人生を他人に干渉してもらいたい。それが愛されたいという言葉の意味ではありませんか?」

 なんという論理。
 最後のシーンは、真賀田博士から犀川への愛の告白ではないだろうか。


■ 2001.5.31 『項羽と劉邦』 司馬遼太郎

 いつの入試だったか忘れたが、センター試験の国語の問題に、司馬遼太郎の『項羽と劉邦』が出題されたことがある。たぶん、センター試験がはじまったばかりの頃だったと思う。
 思えば、出題された先生も罪なことをなさったものだ。もしも試験本番にコレに出会ってしまっていたら……いやもう、きっと試験どころではない。どっぷり世界に嵌まりこんでしまって、今更「傍線@は何を指し示すか。以下の4つから選択せよ」なんていう文章が目に入るはずがない。
 幸か不幸か、私は学校で試験の過去問をやっていて、この小説に遭遇した。勿論抜粋が出題されているわけだが、もうその日は続きが気になって授業どころではなかった。
 そして、高校生の分際でその日のうちに上中下巻3冊まとめ買い。徹夜で読んだ。
 それまで星新一だとか赤川次郎だとかの軽め短めの文章ばかり読んでいた私に、長編小説とは何たるかを知らしめた作品である。
 張良の神韻、韓信の無心、蕭何の実直、とにかくでてくる人物がとてつもなく魅力的だ。そうして、語る視点の自在な距離感。

 ……こうして私は長編小説にはまり、中国史にはまり、お約束のように最初の入試には失敗した。そう考えると、本試験で出会っても結果は同じか……
 晴れて浪人生となった私は、ご多分に漏れず、毎日図書館へ通った。
 ええそれはもう、受験勉強でなく、中国史の文献を読み漁るために……



<TOP  本にまつわるもろもろTOP  >>よしなしごと01