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よしなしごと02
■ 2001.8.18 『こころ』 夏目漱石

 7月29日の日記でも触れたのだが、今更漱石先生の『こころ』など手に取って柄にもなく読み始めたのは、学生以来の悪友に、「あれは一種男同士の恋愛の話だよ」とフカされたからである。ほほう、と興味を引かれて読み出したのだが、そういう先入観があったせいかはともかく、最後まで一気に読めた。『三四郎』を冒頭5行ほどで脱落した私からは信じがたい。
 それほど、作品世界に入り込みやすかったと言える。確かに、読んでいる間に作中の時代背景はともかくとして、文体や表現に古臭さはまったく感じなかった。新仮名遣い版で読んだせいと言われればそうかもしれないが、例えば『古寺巡礼』の和辻の文章のほうが私は『こころ』よりも古いと感じる。改めて、文体・表現というものの力を思い知った。優れたものは、いつまで経っても古びることはないのだろう。

 内容に関しては、正直言って途中から展開が読めてしまった。ああこうなるんだろうな、という予想が次々とそのとおりになるのを追いかけつつ、けれども本を閉じる気にはならなかった。
 前半の「先生と私」では、期待通り(笑)の濃密さで私と先生のやりとりが描かれていて、なまじの恋愛小説よりもどきどきする。そうして、「先生」の深淵を覗き込むような台詞の数々が、刻みつけられるように印象に残る。

 「かつてはその人の膝の前に跪いたという記憶が、今度はその人の頭の上に足を載せさせようとするのです。私は未来の侮辱を受けないために、今の尊敬を斥けたいと思うのです。私は今より一層淋しい未来の私を我慢する代わりに、淋しい今の私を我慢したいのです。自由と独立と己れとに充ちた現代に生まれた我々は、その犠牲としてみんなこの淋しさを味わわねばならないでしょう」

 陰影と伏線に満ちた第一章の後、生身の「先生」は登場しない。父の病のため帰省した「私」が綴る郷里の状況とそれに対する思い、そうして「先生の遺書」から後は、もう先の伏線から雪崩れのように展開が予想できる。
 予想できるということ自体が、漱石が書こうとしていることの本質かもしれないと、ふと思った。予想できるのに、知らない間にその状況に陥っている。わかっていながら、繰り返される。自分の恋のために、親友を裏切り、死に追い詰める。この手垢にまみれた主題が、手垢にまみれている、ということ自体が、やりきれない人間のエゴの存在を教えているように思う。

 ところで、私の印象では、こと恋愛に関しては概ね科学者のほうがロマンチストで、文学者のほうがペシミストのように感じるのだが、どうだろう。
 たとえば、現役の工学部助教授の森博嗣が書く犀川&萌絵シリーズなんて、恋愛小説として読むとそこらの少女漫画よりもずっと大甘だと思うのだが。比較が悪いですか?

2001.7.30 『こころ』 夏目漱石(新潮文庫) 読了

■ 2001.8.18 『ななつのこ』 加納朋子

 さっくり肩の力を抜いて読める。落ちもなるほど、と膝を打つように腑に落ちる。伏線の自然さには感心もする。
 だけど、このタイプの作品を好きだとは思わない。
 北村薫を読んだ時にも感じた、あのタイプの穏やかで日常を細やかに描写した柔らかい文章を読んだときの、 かすかな薄ら寒さと苛立ちは何だろう。
 日常をそのまま綴る、と言っても、そこには必ずなにがしかの美化が入るに違いない。
 一方で、日常を本当にそのまま綴ったら、作品にはならないというのも理解できる。もともと私が本を読む動機のほとんどは現実逃避なのだから、生々しい現実の持つ迫力もたまにはいいが、いつもいつもは敬遠したいとも思う。
 ただ飾るにしても、こういういかにもハートウォーミングな話、という形態には訳もなく鼻白んでしまうのだ。
 現実から遊離しようとしているときに、どこかの女子学生の甘ったるい日記なんか読みたくないのだ、 という好き嫌いが先行する感情的な理由が一番を占めているのは確かではある。が、それだけでもない気もするし、要するに何がどう気に入らないのかまだはっきりしないので、多分加納朋子も北村薫もこの先また読むだろうと思う。
 評価はしばらく寝かせておくことにします。
 天邪鬼もいいところだとも思いつつ。

2001.8.16 『ななつのこ』 加納朋子(創元推理文庫) 読了

■ 2001.8.15 『イタリア遺聞』 塩野七生

 読了順からいくと前後してしまったが、『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』でハマった塩野七生のエッセイ集。
 歴史ものの読み物として非常に面白い。なにより塩野七生の美学が溢れている。

 美学、というとき、はっきり言って彼女の趣味・生活はブルジョワだ。
 ローマに住み、医者の夫、食後のワイン、法王庁の友人……と、この辺まで来て、だいたいが小市民の私は羨望まじりにケッと呟くところだが、それもここまで堂に入っていると、もうかっこいいと思えてしまう。この人は本物だ、と何の脈絡もなく決め付けてしまって、ファン心理の前に思考停止を決め込んでしまった。何が本物で何が偽者なのか、基準は自分でもよくわからないんだが。
 例えば『デスデモナのハンカチーフ』の段。ヴェネツィアン・レースの話なのだが、

 いや、これを想像している私の気性にふさわしい表現をすれば、ヨーロッパ中の男女に、ヴェネツィアのレースを所有しないものは人でないように思わせることであった。

 この一句。もう私は痺れました。
 そこには女王様にヒールで踏みにじられたい心理とどこか通じるものがあるかもしれない。
 「パンがないならお菓子をお食べ」というマリー・アントワネットの言い草は、彼女の無知から出た言葉だからムカつくのだが、これがもし確信犯的な物言いだったなら、その言やよし、である。
 そこには矜持がある。矜持を持つことは、同時に弱みを持つことでもある。それを承知しながら矜持を持ち続ける人には私は手出しができない。少しの羨望と少しの尊敬の念をもって遠くから眺めるのみだ。
 ただ塩野七生の場合、確固たる美学と矜持が率直な眼差しと柔軟な行動力と同居しているから、とてもフットワークが軽やかで、こちらが変に固くならずに済む。
 そういえば、これまたエッセイの中の『レオナルド、わが愛』で、彼女が人を書くのはその人間をモノにするためだ、と書いている。その人物を完全に理解し、人生を追体験できる自信がない限り書けない、だから作中の戦争や陰謀だって自分にはできるという自信があったからこそ書けたのだし、同じ理由でレオナルド・ダ・ヴィンチは書けない、というような内容のことを書いていた。『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』を読んだとき、なんて優雅なのに冷徹で、男性的な文章を書く人なんだと感嘆した覚えがあるが、だとすれば、あのときの塩野七生はチェーザレ・ボルジアだったのだと納得した。
 かっこよすぎます。
 ああもう、ほんとに、おねえさまと呼ばせてください。

 それにしても、巻末の佐々淳行氏の解説だけはどうにかならないものですかしらね。
 フルコースに酔いしれて仕上げに頼んだコーヒーが死ぬほど不味かったって感じ。

2001.7.19 『イタリア遺聞』 塩野七生(新潮文庫) 読了

■ 2001.8.1 『古寺巡礼』 和辻哲郎

 古い社寺を巡るのは好きだし、仏像や美術品を眺めるもの好きだ。
 だが、どちらかというとあまり背景を知らないまま、漫然とながめて「いいなあ」と言っている程度で、背景に興味がないわけではないのだが、見る前にしっかり予習するような殊勝な心得はない。
 が、基本的にこの手のガイドブック的な書物は好きで、ひょんなことで積読リストに連なって久しい、もはや古典とも言えるこの本を読み出した。
 手に入れたのはだいぶ前で、京都の古本屋で買った記憶がある。

 随想のようで紀行文のようで評論のような文章だった。評論というには、あまりにも直感的で、随想というには、あまりにも建築史・美術史学的に立ち入っている。著者は古美術への案内を兼ねた感想記だとことわっているが、くくりはどうでもよくて、とにかく読んでいて、こんな見かたがあるのか、こんな感じ方があるのか、と新鮮だった。
 中国や朝鮮は勿論、インドやギリシア美術にまで比較が及ぶスケールの大きさがすごい。
 ことに夢違観音とモナリザを対比して述べた部分は面白かった。モナリザには人類すべての暗黒が…という部分には、言われてみてはじめてだが、深く納得した。

 ただ反面、和辻哲郎の言葉とセンスは高尚すぎて、「なんだかよくわからんけどそんなもんかしらー」とどこか他人事のように受け止めてしまうところが、なきにしもあらず。
 特に美しさの要素に精神性を求める傾向が強く感じられるのだが、私にしてみれば、仏像のなかにはすごくセクシーなものが多いような気がするんだが。人がものを美しいと感じる要素に、セクシーさやエロティックさは切っても切り離せないものなんじゃないかと思う。
 どうも和辻さんには肉体よりも精神を、物質よりも思想を、形而下よりも形而上を至上とする傾向があって、理解はできるけれどもあまりに力説されると、私は天邪鬼なので、つい鼻白んでしまう。  確かに百済観音の人間によく似て人間では絶対にありえない造形には惚れ惚れとするけど、同時あれってにすごいスレンダー美人でセクシー、なんて俗気にまみれた私などは思ってしまう。

 ところで、前書きでも著者自身が言及していたが、大正時代に書かれたこの稿は一度改訂されている。今回読んだのも改訂版で、解説では何箇所か原文を引用して初版との相違点を比較していた。
 その上で著者自身も解説者も改訂版のほうがはるかによくなっていると評していたが、私は初版の文章のほうが好きだ。確かに初版の文章はお世辞にも冷静とは言えない。興奮のままに綴ったことがあらわで、熱に浮かされたルポタージュのようだと言えなくもない。が、その率直すぎる文章のほうが生気があって私は好きだ。著者が初版を低く評価するのは、文章が熱く振りまく一種の色気への気恥ずかしさからかもしれない。

 改訂版の文章は努めて冷静で、美術・建築の美しさをあますところなく表現しようという意思は強く感じるものの、それをさらに歴史的・学問的背景も包括して論じようという姿勢が貫かれている。
 ただ、いくら学問的裏づけをしたところで、ものを見てその価値を決定するのは人で、価値基準はその人の感覚なのだし、こと美術や建築に関して、感覚・感性に訴える文章であって何が悪い、と私などは思う。
 そのもの自体について知りたいのなら、ガイドブックだか随想だか紀行文だか評論だかよくわからない文章を読もうとは思わない。可能ならそのものを実際に見に行くし、背景が知りたいなら研究書を読む。
 文章を通してその人がどのようにものを見ているか知りたくて、文章を読むのだ。少なくとも私は。

2001.7.25 『古寺巡礼』 和辻哲郎(岩波文庫)読了


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