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よしなしごと03
■ 2001.11.5 『屈せざる人々』『新・屈せざる人々』 辺見庸

 基本的に、ここでは嫌いなものについては書かないことにしている。といっても、そんなたいそうな信念を持っているわけではなくて、「嫌いだ」という負の感情について、わざわざ文章に起こすほどの執着を感じないし、その時間も気力もないから結果的に書いていない、というだけである。だから、勢い余ったときには毒吐いていることもある。怒りにも嫌悪にもパワーが要るというのだけは確かだ。要するに怠惰なんだが…

 そういうわけなので、こういう種類の本の感想を書くとき、ほとほと困り果ててしまう。嫌い、ではない。主張自体は理解できるし、大体においてお説ごもっとも、とも思う。
 ただ、しっくりこないのだ。肌になじまない。著者が憂慮する、昨今の「敵がわからない」状態の一因を作っている人間の性格なのかもしれないが、著者の、少々マッチョにも感じられる視点やものの考え方に、ちょっとうんざりしてしまうのも事実だ。
 しかし……ここで不明瞭に文句を垂れつつ、結局2冊も読んでしまう私は一体何なんでしょうね……

 本書は、辺見庸の対談集。仕掛け人である辺見庸もゲストたちも皆非常に個性的で、確固たる自分を持っている人々の生の言葉を聞くのは、やはり面白い。皆それぞれ映画監督だったり作家だったり建築家だったり俳優だったり、各分野の魅力的な専門家なのだが、専門用語はほとんど出てこない。ごく普通の言葉で語るなかに、彼らの思想が垣間見える。
 読んでいて、人の考えを知るというのが面白い反面、ひどく怖いことでもあると改めて感じる。基本的に話し言葉で書かれているので、その人の言葉の端々とか、ちょっとした言い回しとかで、その人の考え方がなんとなくニュアンスレベルでわかる。それだけに、それが自分とあまりにもかけ離れていたときは、ほとんど生理的な違和感があるし、思いもよらない考え方だとショックも大きい。
 ひょっとすると、私は聞きたくないこと、耳の痛いことに拒絶反応を示しているだけではないのかとも思う。まあ、そういう感覚を得ただけでも読んで得るものはあったのだろうし、辺見庸の目論みも達せられているのだろうけれど。

 辺見庸という人は、今自分が属している現実というものに、非常な疑念を抱いて生きている人ではないかと思う。現実に満ちる欺瞞に、「馴染むな」と言う。そうして顔を上げて生きている人々を称して「屈せざる」と表現したのだとは理解できる。
 ただ、そうでない人は時代に屈して生きているのか、と言うと、それは違うんじゃないかとも思う。普通の人が普通に暮らす強靭さ。何も反逆する熱い生き方だけが生き方じゃないと、ついついテンション低く生きている私は思ってしまう。
 そういう意味で、読んでいて一番共感したのは、串田孫一さんとの対談。

 いまにつながっているニ、三年というのは見にくいし、感じにくいところですね。前からの癖かもしれないけれども、これもそれこそ書くことは控えていることの一つだけれども、人間が全部滅亡してしまったときのあとの風景というのを時々思い描けるわけです。それがとてもきれいな風景なんです。何かのかげんで猛烈な風が吹いて、地上にあるものはみんな海のなかへ吹き飛ばされてしまい、そのあとの、荒涼としているのか、さばさばとしているのかわからないけれども、きれいになくなったような世界というのが時々見える気がするんです。どうしてなのか、と自己診断すると、このニ、三年の間に感じるようになった、そういう怖れのようなもの、まさか願望ではないにしても、諦めのようなものがその風景を僕に組み立てさせているのかもしれないと思うんですね。
 社会の流れやいろいろな事件についても、それがこういうことなんだと自分のなかで整理できないんですね。論理だけでは説明しにくい。限られた言葉で伝えるとなったらば、なかなか難しい。それを何といったらいいかなと思ったときに、一足飛びに、荒涼とした地球の眺めを僕は目に浮かべるということを申し上げたほうが正直なのかと思ったわけですけどね。

 なんて怖いことをさらりと言う人だろう。私はこの人の言う、無害な動物になりたいと思う。

2001.11.2 『屈せざる人々』『新・屈せざる人々』 辺見庸(角川文庫) 読了


■ 2001.10.16 『ウンベルト・エーコの文体練習』 ウンベルト・エーコ/和田忠彦 訳

 最初は怪訝な面持ちで、文面を探るように読む。根掘り葉掘り、いや、鵜の目鷹の目、という表現がより近い。もしかしてこれは、とじわじわわかることもあれば、ある一節で閃くようにわかることもある。わかった後は、もうにやにや笑いが止まらない。
 今私を支配するのは実に根暗な情熱である。つまり、パロディのモトネタ暴きである。でも、言わせてもらうなら、はるかに高みをいく根暗は、作者のウンベルト・エーコ先生と、彼と結託した訳者の和田忠彦氏だ。まったく本文はおろか、訳者あとがきまで、どこまで本気でどこまで嘘なのかわからないパスティーシュだとは、いい根性である。勿論こんな御仁たちであるからして、種明かしは、一切ない。ちんぷんかんぷんで首をひねりながら本を閉じる人や、文面を信じて大嘘の書物を一生懸命探す人、あああれならわかったよと澄まし顔で知ったかする勘違い野郎まで、そんな読者が右往左往するのを、この人たちは書斎の奥で眼鏡をハンカチで拭きながら隠微に楽しんでいるのだ。
 わかる? わかるかね? わからないだろう。まだまだ青いね。もっと本を読みたまえ。ふふふふふふ。
 でも、それでいいのだ。本来パロディ・パスティーシュというのは、わかる人にだけわかるという、実に閉鎖的で排他的な愉しみなのである。

 しかしながら先生におかれましては、モトネタが渋すぎます。
 定番『聖書』ありーの、アメリカの月面着陸ノリの報道パクリありーの、『O嬢の物語』とか『ロリータ』とか一世を風靡したきわどい系ありーので、遊びの次元が違いますな。

 個人的に一番大受けしたのが、『涙ながらの却下(ボツ)』のなかの『フィネガンス・ウエイク』である。出版者・編集者の立場で、古今東西の名著『聖書』から『実践理性批判』まで叩き斬る企画。

 ジェイムズ・ジョイス『フィネガンス・ウエイク』

 頼むから、ぼくに本を読ませようというのならもっと気を配るよう編集のほうに言ってくれ。ぼくは英語の本の担当だけど、君たちの送ってきたのは、何だか訳のわからない別の言語で書いてあるじゃないか。本は別便で返すからね。

 こんなこと言われちゃうと、悪乗りしやすい私は「ふーん、読んでみようか」と一瞬思うも、図書館で本の厚みを見ただけで持って帰るのが嫌になって、呆気なく不戦敗。できれば柳瀬尚紀氏の訳で読みたいしなあ……というのは、ただの負け犬の遠吠えである。
 はっ、これってもしかして博士の陰謀に乗せられている? どこかから、ぞんざいかつローテンションな野原進之介口調の「読めば?」と言う声が聞こえるのは、幻聴……?

 ちなみに、巻末に読者のための参考図書(要するに、モトネタ集)が載っているが、私はその半分も読んでいない。はっきりいって、この遊びに加わる気なら、自慢でもなんでもない。
 読んでいなくても楽しめる、なんておためごかしを言う気は毛頭ない。

「来るべき世代のために、よくよく戒めておくべきは、戯れるのはよい、だが真面目に、ということだ」
(ウンベルト・エーコ)

2001.10.16 『ウンベルト・エーコの文体練習』ウンベルト・エーコ/和田忠彦 訳(新潮文庫) 


■ 2001.9.26 『蛇を踏む』『消える』『惜夜記』 川上弘美

 一番最初に読み終わったときの正直な感想は、「一体、何だったんだ」だった。結局、何が起きたのかわからない。最後まで、何も解決しない。
 しかし、それは不快なものではなく、逆に何となく心地よい。何も解決しないかわりに、どんな現象も不思議でない。そんな世界に引き込まれると、常日頃、無意識に何事にもなにがしかの解決を求めている自分に気づかされる。
 現実から遊離した物語を読んでいても、何かその世界に現実に通じる寓意を見つけ出そうとしてしまう。そういう謎解きをしようとしている自分が、この人の文章を読んでいると、とてつもなく無粋に思われてくる。
 解決しないままで、いいじゃないか、と。その宙吊り感も結構居心地がいいじゃないか、と思う。うーん、完全に取り込まれている。きっとこの本を読んでいる間私は、背中からじわじわと川上ワールドに侵食されているに違いない。

 静かに常識を踏み外して、径の脇の野っ原をさまよい歩く感じ。珍しい色の蜻蛉を見つけて何となく追いかけているうちに、知らない土地に迷い込んだ感じ。そこでは不思議は当然の顔をして居座っており、それが当然だということをやってくるものに認めさせようとする。
 『蛇を踏む』の「私」と「蛇」の中途半端な、でも危うい関係は、実はちょっと至福の境地かもしれないと思う。
 収録された三作のなかで一番好きなのは、『惜夜記(あたらよき)』なのだが、どことなく話の流れに円環を感じるところに、ミヒャエル・エンデの『鏡の中の鏡』を思い出す。とびきりシュールな『不思議の国のアリス』のようだ。
 『消える』は、普通の団地のちょっと不思議な話をしているのかと思いきや、ごく一般的なことのように人が消えたり、縮んだり、膨らんだりする。
 すごく薄い文庫本なのに、読み返すときはいつも、せっかちな私にしては破格のゆっくりさで読み通す。
 若い女性の自立と孤独を描いた……と背表紙の解説にある。
 芥川賞を授けるには、こういうもっともらしい理由づけが必要なんだろうか。そんな小難しいこと言わずに、ただこの異次元空間に身をひたして、ひととき狐につままれたような感じを味わうべし。


2001.9.26 『蛇を踏む』 川上弘美(文春文庫) 


■ 2001.9.22 『閑吟集』 

  なにせうぞ 燻んで 一期は夢よ ただ狂へ (55番)
   ( なにさ まじめくさった顔して この世は夢よ ただ遊びたおすのよ )


  おしゃる闇の夜 おしゃるおしゃる闇の夜 つきもないことを (73番)
   ( 会いたいゆうたかて そないゆうたかて闇の夜や 月もないのに )

   *訳は巽堂の大胆かつ適当な意訳です......


 和歌はどうにもなかなかとっつけないのだが、俗謡や古謡や川柳狂歌といった肩の力の抜けた感じのものは好きである。字句を見ただけで意味がほぼわかる気楽さがいいし、何より野放図で、規格なんか守っちゃいない赴くままさ加減がいい。
 というわけで、小学館の古典文学全集の『閑吟集』の巻だけ買うという暴挙に出てしまった。前々から欲しかったんです。どうしても。
 全集ものだけに、でかい箱入りのハードカバー。
 ネットで本を探したとき、何種類か出てきたんだが、『催馬楽』『神楽歌』『梁塵秘集』『閑吟集』と一番いろいろ収録されているお得感に、ついこれに決めてしまった。よく考えたら『梁塵秘集』は別の文庫で持っていてお得でも何でもないのに。 どうも自分に、本自体を集めて溜めておくことに悦楽を見出す傾向があるのは自覚している。全集ものに手を出し始めたら末期症状だな、と思っていたのだが、思ったより症状は進行していたようだ。

 で、肝心の本のなかみだが、上下に細かい字で注釈がついてて二色刷り。ちょっと高校の古文のプリントを髣髴とさせて第一印象で萎えるものの、いざ読み出すと注釈はありがたい。
 そもそも私は古文の時間は昼寝の時間と思っていた不届き者なので、和文体はビジュアル的に抵抗があるが、それでも閑吟集は楽しめる。謡だっただけに、リズムがよくて語感が心地よい。皆好き勝手に、思ったままに謡っているのがわかる。それだけに、謡ったシチュエーションの想像をかき立てられる。
 言葉は呪である、ということを思い出させる、不思議に引き込まれるイメージの数々に溺れるのも、また愉しきかな、であります。


2001.9.22 『神楽歌・催馬楽・梁塵秘集・閑吟集』 日本古典文学全集(小学館) 


■ 2001.9.8 『A MASKED BALL』 乙一(『天帝妖狐』内収録)

 平易な文章に、少し体温低げなパーソナリティのモノローグ。さらりと入り込んだ後、引き込まれるように読み込んでしまった。ごく短い小説だから、すぐに読み終わった。時間にしてあまりに呆気なかったので、すぐに再読した。 今度は結末を知った上で読みながら、この人はすごい人なんじゃないかとじわじわ思った。これはもうミステリと言ってもいいのではと思う。それも極上の。
 そして、読後に様々な連想を引き起こさせる小説である。

 話の軸になるのはトイレの落書きである。学園物では定番とも言える小道具だが、ここで扱われているのは、まぎれもなくインターネットなどで問題になっている匿名性だ。トイレの壁に掲示板のようにメッセージが書かれ、誰だかわからないその書き手に次の書き手がこれも実体を明かさずレスポンスを返す。
 相手の正体はわからない。逆に、実体を明かさずに関与している限り、自分が自分である証明もできない。そこでは相手が匿名性の海に沈んでいるとともに、自分自身のアイデンティティもなくなっているのだ。そんな状態で生きているのは、匿名のメッセージだけが飛び交う、その『場』そのものだけなのではないかと、ふと思う。

 そこからのさらなる連想。流言飛語。関東大震災時のデマ。うわさ。都市伝説。根も葉もない噂や都市伝説がインフルエンザの流行のように現れては下火になり、また現れるのはどうしてか。例えば、ある話を知人にする。えーうそでしょ、と返される。ただの噂だよ、と応じる。その瞬間、話の出所は匿名性の海に呑まれる。時にその匿名性を隠れ蓑に人々の願望や不安が上乗せされ、デマが形成されなかったか。
 予期せぬ交通事故の加害者に、連日無言電話や名乗らない一方的な中傷の電話がひっきりなしに鳴るという。匿名性の闇の中に巣食うのは人間の本性だろうか。

 あるいは、別の連想。辻占。言霊の魔力。辻占にはいろいろな形態があるというが、その一つに市などの人の多い場所に行って、雑踏の中から人の言葉を聞き取り、それを占の結果とするものがある。群衆には神が宿るという考えである。そこには、群集の動きのなかに何か大きな意思や力が働いているのではないかという感覚、かすかな怖れが感じられる。
 とすれば、世論調査は現代の辻占だろうか。しかしそこに大きな力は働くだろうか。

 埒もない連想が次々と働くのは、読後にも謎が残って余韻が後を引くからだ。ほんと、若いのに手練れですな、この作者。

2001.8.3 『天帝妖狐』 乙一(集英社文庫) 読了

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