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よしなしごと04
■ 2001.12.19 『マシアス・ギリの失脚』 池澤夏樹

 すべてが、おさまるべきところにおさまった、という安堵と気持ちよさ。それから物語に浸りきった満足感が、読み終えた後にある。神話、民話、昔話などには、この種の落ち着きがあるように思う。

 神話は、ある意味で客観だと思う。それは、個人の経験や体験を踏み越え、それを普遍化客体化したものではないか。ものをかたるのであって、自分を語るのでない。感情を語るのでない。経験を語るのでない。ただそこにあったもの、起こったことを語るということ。それは、一種のレポートではないのか。そう考えると、叙事詩なんていうのは、究極のレポート形式に違いない。

 しょっぱなから脱線してしまった。

 舞台は南洋の島。マシアス・ギリはその第四代目の大統領である。日本とのパイプを持ち、国際社会のなかに小さな国家を維持するに十分な手腕も、権力も、俗物性もある。国は三つの大きな島から成り立ち、そのひとつで祭りがある。首都には日本の資本が入ったホテルがあって、一方で優雅な娼館がある。大統領官邸には大統領に会いに亡霊が訪れ、バスは気まぐれに消える。

 想像力で語られるナビダード共和国は、まるで箱庭のようである。壺中天や桃源郷のイメージが重なる。登場人物やエピソードの、どのピースが抜けても、成立しない緻密さ。それが、緻密という計算に依ったものでなく、あたかもそうなることが必然であるかのように感じられる。
 それでいて、大統領が日本とパイプを持っていたり、娼館ではマイルス・デイヴィスが流れたり、『薔薇の名前』に言及されたりと、現実世界に抜ける横穴は無造作にぽこぽこと開いている。それが不自然でない、作品世界の懐の深さ。スケールが大きい、などという大上段な構えはしっくりこない。見渡す限り気持ちよく地平が広がる感じがする。
 実際、語り口が絶妙だと思う。ひらりひらりと描写の主体が変わる視点の自在さ。ユーモラスなバスの奇行を淡々と報告するバス・リポート。広場での人々の会話はまるで戯曲のようだ。

 語る、ということは、ある世界を構築すること。
 その一方で私たちの属する世界は常に存在を続け、動き続けていて、物語はそれを懸命に追いかけるようでもあるということ。
 この相反する命題を体現しているのが、マシアス・ギリと、ケッチとヨールの二人組みなのではないだろうか。

 仮に、島の世界(ナビダード共和国)を物語と、島の外を現実世界と考えたらどうなるだろう。

 ケッチとヨール。ヨーロッパを放浪してナビダードにたどり着いたという彼らの存在は、思えばこの3つの島からなる世界には異質に見える。島の外から来た彼らの存在は、もっとも生々しく、私たちの知る現実世界に接続している。だが彼らは、少なくとも物語が進行する現在では、ナビダードで何もなすことはない。娼館に住み着き、I.Wハーパーの12年ものを飲みながら、お互いに夢のような物語を語るだけだ。何ら物語りの進行に積極的に寄与しない彼らは、あるいは夢の中に登場する自分自身のように、半端に現実世界に接続する余地を残しながらも、島の世界に埋没している。
 一方マシアス・ギリは島に生まれ、日本に留学することで島の外の世界を知り、それを島に持ち帰る。彼もまた密接に外に結びついているという以上に、常に外と向き合っている。

 だが、権力欲、俗物性といったもので私たちの知る現実世界ともっとも強固に繋がっていると思われた(そして、当人自身もそう思っていただろう)マシアスが、島の大きな力に背を押されるように、物語に呑み込まれていくのに対し、物語のなかへの安住を望み、安住すべく振舞っていたケッチとヨールは、島の世界を脱出することになる。脱出した彼らの居場所は、はっきりとは明かされない。というより、居場所はなんら重要ではないのだと示される。彼らが語る世界、それこそが彼らの居場所だと言うかのように。

 『マシアス・ギリの失脚』というタイトル。そして、大統領を失脚に追い詰める「大地は汝を受け止めるであろう」というスローガン。
 失脚とは、大地への回帰とは、物語への回帰を意味するのだろうか。だとすれば、安住の地を離れざるを得なくなったケッチとヨールは、物語の終わりを意味するのだろうか。
 しかし、ケッチとヨールは、惜しみながら読み終えた本を読み返すように、どこでもない場所で再び語りはじめる。

 最後の、アンジェリーナとイツコの会話は印象的だ。島では相変わらず唐突にバスが消える。消えたバスはひょっこり戻ってきて、乗っていた人々は若々しくなって帰ってくる。それが、これからナビダードの観光の目玉になる、とイツコは言う。

 人々はいつだって、物語を求めているのだ。


2001.12.18 『マシアス・ギリの失脚』 池澤夏樹(新潮文庫)読了


■ 2001.11.25 『歯とスパイ』 ジョルジュ・プレスブルグ/鈴木昭裕 訳

 SS6…ID3…SS3…ID1…SD4…IS7…
 なんの暗号かと思うだろうが、これは歯列番号である。
 そして本文を開くや目に入るのは、歯列表。素敵なノリである。

 一般に血沸き肉躍る小説の題材には恋だの裏切りだの戦争だの政治だのが挙げられるが、そんなものはうっちゃっといて、この小説の真の主役は「歯」である。ここでこの世のすべてを支配するのは歯の痛みなのである。いや、地味なりにも恋や裏切りや戦争や政治は登場するのだが、たとえ運命の恋人を前にしても、ひとたび歯痛に襲われるやいなや、百年の恋はかなぐり捨てて歯医者に駆け込むのが、この本の主人公氏である。なんとも人間の本質を突いていやしませんか、これ。

 主人公は冴えない工作員。つまりスパイなのだが、それにしてはそのスパイ活動は地味である。第一、工作員だと言われなければ、いったい何をどう活動しているのかさっぱりわからないくらいに。唯一はっきりとわかるのは、主人公が絶えず歯痛に悩まされていて、始終さまざまな歯医者に駆け込んでいることくらいだ。そして登場する数々の奇天烈な歯科医師たち。主人公とこの奇人変人たちのやりとりのおかしさ。

 大体、歯科医師とのやりとりは当事者には真剣そのものでも、第三者から見れば喜劇的な場合が多い。
 誰しも経験があると思うが、歯医者が患者の口の中に唸りをあげて回転するドリルを突っ込みながら、
「痛かったら言ってくださいね」
「×●§▲@〆※ξ〜〜〜!!!」(←この状態で言えるわけないだろ)

 たかが歯とは言え、当人にとっては人生そのものの苦悩に苛まれている患者と、所詮、直接生死には関わらないことを熟知している歯科医とのギャップ。
 ハムレットは頬に手を当てて眉間に皺を寄せる…
「生きるべきか死ぬべきか、それが問題だ」
「いいから、もっとよく見えるように口を大きく開いてもらえないかね」

 ……閑話休題、遊びすぎました。

 この小説の面白いところは、絶えず歯の痛みに一喜一憂する主人公もさることながら、彼の歯痛に連動するように世界に政変が起きる、というところだ。政変といっても、それとあからさまにわかるような記述はないが、文脈や状況から仄めかされていたりして、そういったネタを探し出すのも楽しい。(訳者あとがきで一部種明かしされているが)
 何より、とぼけた語り口で読ませる小説である。翻訳者も凄腕。論理遊びとアフォリズムのセンスには、なんとなく別役実をイメージしてしまった。訳者あとがきも素敵なノリである。

2001.11.25 『歯とスパイ』 ジョルジュ・プレスブルグ/鈴木昭裕 訳(河出書房新社) 再読


■ 2001.11.9 『読書中毒……ブックレシピ61』 小林信彦

 題名のとおり、まっとうに読書案内的エッセイ集。俎上に載る作品も、それに対するコメントもからりと乾いた明快さがあって、その意見に共感するかはともかくとして、気持ちよく読める。
 この本を貫く、小説はまずストーリーとその見せ方だ、という意見には、まあ賛成半分、納得いかない部分も半分といったところ。日本文壇では語るテクニックが軽んじられていた、というところは、まあそうかもしれないと自分の趣味も含めて思う。
 そこらへんに対して、文章を売るプロとしての辛辣な目での読解(要するに、つっこみ、ですね)がなされていて、面白い。プロがどういう目で同業者の作品を見ているのか、という素人サイドの下世話な興味もちょっと満たされる。ここまで徹頭徹尾、面白さ、という観点から小説を評価している書評というのも、いっそ気持ちがよい。だからこそ、この人にかかると、いわゆる「文学作品」もハリウッド映画もいっしょくたに論じられてしまうわけだ。

 だけど、そういったあれやこれやの全てを吹っ飛ばしてしまったのは、実は、何気なく目にした著者プロフィールでわかった、著者の年齢だったりする。
 昭和7年(1932年)生まれですって? 『ちはやふる奥の細道』での笑いの取り方から、筒井康隆っぽい印象ながらも、もうちょっと端正なシニカルさを感じて、なんとなく若いイメージがあったのだが。その後に読んだ『ぼくたちの好きな戦争』で、戦争という題材を使っていながらの、あの一本筋の通った狂乱と、戦中のリアルな描写から、村上春樹ほど若くはなさそうだな、とは思ったが……いやはや驚愕。
 なんというか、この人は文体や文面からにじみ出る雰囲気が若い。だって文中で、「そーゆー」とか書いちゃうんですもん。エッセイのなかで戦中を話題にしていても、「あのときはこうだった懐かしい」的な過剰な懐古がないからかもしれない。
 いままで読んだ作品のイメージがちょっと変わってしまった。もう一回、『ちはやふる奥の細道』読んでみようかな。

2001.11.9 『読書中毒……ブックレシピ61』 小林信彦(文春文庫) 読了


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