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よしなしごと06
■ 2002.6.9 『ろまん燈籠』 太宰治

 太宰治はこれまで、食わず嫌いしていたのだった。
 お約束のように国語の教科書に載っている『走れメロス』が彼の作品としてのファーストインパクトだったのだが、これがいけなかったのだと思う。中学生の頃の私は、この話が大嫌いだった。一言でいうと、興ざめだった。思えば、あの小説自体が気に入らなかったというよりも、あの小説をあえて教科書に載せてきた意図が気に入らなかったというほうが正しかったような気がする。話自体もクサいし、何だかナルシスティックさまで感じられて、その頃から相当に根性がひん曲がっていた私は、砂吐きそうな気分で、国語の授業で感想文なぞ書かされていたのだった。それに加えて、国語便覧に載っていた恐ろしく簡略なこの作家の経歴を読んで、私の中で太宰治は「ダメ男」の烙印を押されてしまった。
 物知らずの中学生ごときに、短絡的に甚だ不当な評価を下されてしまった文豪。天邪鬼真っ盛りの時期の国語の教科書に『走れメロス』だの、武者小路実篤の『友情』だのという種類の文章を載せるのは、諸刃の剣だと思う。

 話が逸れたが、何せ原体験がこんな状態だったので、友人から文庫を貸されて、そのまま受け取る気になったというのは、何がしか心境の変化があったというべきだろう。わりに素直にページを開いたこと自体、自分でもちょっと意外だったが、読んでみてさらに意外だった。今読むと、わりに読みやすいのだ。
 短編集だったというところが、よかったのかもしれない。
 昔感じたクサさや、過剰なロマンチシズムは感じない。(というか、『走れメロス』が別格だったんですねあれは)経歴に感じた薄暗い諦観や自虐性はそこはかとなく漂うけれども、全体のトーンは穏やかで、生真面目ささえ感じる。

 質問は、あまりありませんでした。仕方が無いから、私は独白の調子でいろいろ言いました。ありがとう、すみません、等の挨拶の言葉を、なぜ人は言わなければならないか。それを感じたとき、人は、必ずそれを言うべきである。言わなければわからぬという興覚めの事実。卑屈は恥に非ず。被害妄想と一般に言われている心の状態は、必ずしも精神病でない。自己制御、謙譲も美しいが、のほほん顔の王さまも美しい。どちらが神に近いか、それは私にもわからない。いろいろ思いつくままに言いました。

 『みみずく通信』(『ろまん燈籠』内収録)

 これが戦時下に書かれたという事実。一国総躁状態とも言えそうな時代に、穏やかで控えめながらも、この背筋の伸びた文章が書かれたということが、すごいと思う。
 小説もあり、エッセイのような文章もある。有名なものはあまりない(と、思う。何せこの作家とは疎遠だったので)どれも、目から鱗が落ちるとか、激しい感動を呼ぶという種類の文章ではない。けれども心穏やかに読める。来るべき、晩年への萌芽はどこかしら感じられつつ。

 一応、これである程度免疫ができたと思うのだが、いきなり『斜陽』とか『人間失格』とかに入ると反動が大きいだろうか。『津軽』くらいからにしておくべきか、せっかくイメージ挽回したところなので、ちょっと悩む。

2002.6.9 『ろまん燈籠』 太宰治(新潮文庫) 読了


■ 2002.6.3 『一千一秒物語』 稲垣足穂

 随分長いこと本の感想を書くことをご無沙汰していたのだが、その間本を絶っていたわけではなくて、実のところ絶っていたどころか、普段よりもさらに節操なくいろんな本に手を出しては途中で放り出し、さらにまた別の本へふらふらと頭を突っ込むという千鳥足っぷりだった。まったくもって本癖が悪い。
 最大にして深刻な原因は、集中力の電池切れ。
 であれば、集中しなくていい本を、と低きに流れた結果、ごく安易に選んだのがこの『一千一秒物語』だったのだが、考えなしの私はお布団にダイブしたつもりでトランポリンに放り出された気分である。

 例えば、道を歩いていたら、突然見えない相手に背負い投げを掛けられる日常があるとしたら。

 しいて言うなら酔っ払ったときだろうが、そんな酩酊状態を読むだけで味わえるなんて安上がりもいいところである。(そういえば、「どうして酔よりさめたか?」の天地がぐにゃりと歪むような感覚は、まさしく酒に呑まれた経験のある者しかわかるまい…)

 短い、章とも言えないような短文が、標本のようにころころと並ぶ。
 ここの語り手(語り手なのか、語り手たちなのか、それすらも判然としないんだが)ときたら、水道に突き落とされたり屋根の上に放り投げられたり煙突から投げ込まれたり。挙句の果てに自分をどこかに落としてきたりでたまったものじゃなかろうに、そんなことどもを「今日そこの辻で猫に会ってね」と言うのと同じくらい見事に、他人事然と語ってくれる。
 しまいに語っているのが自分か相手か、語っているのか騙っているのかも判然としなくなってくるから、平静な振りをして、ここの夜は混沌としている。硬質で整然たる言葉の輝きが、必ずしも不可逆的一貫性を意味しない世界がここにある。
 自分も他者も何重にも折り重なり、錯綜し、幾つにも分裂していく万華鏡のような世界。そこには何万年をも経た鉱物の輝きを眺めるような、冷え切った気持ちよさがある。
 何度読み返しても、手玉に取られる。あまり何も考えず、ぶん投げられる浮遊感を楽しんでいたい。ここでは月も星も人も、自分でさえも、言葉の意味の鎖から逃れた、ただ一つの硬く輝く輝石のつぶてでしかない。

2002.5.29 『一千一秒物語』 稲垣足穂(新潮文庫) 読了


■ 2002.3.18 『偶然の音楽』 ポール・オースター/柴田元幸 訳

 生きる意味って、何だ? と、のっけからポール・オースターは訊く。
 家族? お金? 幸せな日常? では、幸せか不幸せかの線引きは?

 妻に去られ、一転して家庭を失ったナッシュは、仕事も辞め、あてもない旅をはじめる。旅と言っても、目的地はない。ただただ、車で走りつづける。移動しつづけることだけが目的のように、ひたすらに車を走らせるのだ。動きつづけることが目的だなんて、これこそが生きることの寓意のようでもある。しかし、ナッシュ自身は生きているという実感とは無縁の境地にいる。これが、生きる意味をすっかり失ったがゆえの行動なのだ。

 オースターの文章の何が好きといって、このねじれの感覚がたまらない。逆説と寓意。深読みしても深読みしても、さらにひっくり返されるような、そしてぽいっと、だだっぴろい乾いた部屋に放り出されるような、所在ない宙吊り感覚が好きだ。

 例えば、大富豪二人組みのフラワーとストーン。寓意的な名である。騒々しいものと、寡黙なもの。
 登場人物に共通するのは、「偶然」である。ナッシュが偶然拾ったポッツィ。偶然、大金が転がり込む。偶然、(あるいは忽然、と言うべきか)女房がいなくなる。父親がいなくなる。
 「金は人生を変える」と言うフラワーの言葉が、はからずも示すように、偶然に人生を変えられた4人が一堂に会し、ポーカー賭博というまさに偶然に身を投じる。
 人生そのものは偶然の結果集合であって、意味は本人だけがつけるものだ。オースターは、そう言いたいんだろうか。
 だが、油断はできない。オースターは、逆説を多用する。

 ゆっくりと、しかし確実に、この営みはひとつの逆説に転じつつあった。金は彼の自由を保障してくれるが、金を使ってさらに自由のひとかけらを買うたびに、同量の自由を彼から奪うことになるのだ。

 では自由とは?
 それもまた偶然に左右されるものではないのか?
 自由は不自由の裏返しで、偶然と必然は、背中合わせの事象をどちらから眺めるかだけの違いなんじゃないだろうか。
 車でひた走るナッシュは閉塞しきっているが、ポッツィとともにポーカーで雪崩落ちるように首が回らなくなっていく過程は、はてしなく自由に見える。
 大金をくじで引き当てたフラワーとストーンは、大邸宅に引きこもり、フラワーは古物蒐集に、ストーンはミニチュア模型作りに熱中している。ストーンは、入れ子構造のミニチュアを、一生かけて完成させるつもりだと言う。ポーカーの勝負に負けて巨額の負債を背負ったナッシュとポッツィに、大富豪二人は、石を積んで巨大な壁を作る作業を命じる。果てしない作業である。二人は嫌々ながら作業をはじめる。が、そもそも無目的だった彼らだ。壁が完成してしまったら、彼らはどうするのだろう? あるいは、ストーンにしたってそうだ。ミニチュアが完成してしまったら、彼はどうするのだろう?

 フラワーとストーンの城砦のような大邸宅と、ナッシュの車の運転とは、本質的に同じことのように思われる。どちらも牢獄であり、どちらも自由なのだ。意味と無意味、自由と牢獄の間を振り子のように振れながら、私たちは毎日を生きているのではないか。思えば小さい頃にはじめて博物館で見たフーコーの振り子の、緩慢で、はてしなく閉塞した、それでいて美しい軌道は、音楽的なほどだった。とはいえ、それに必然の力が作用しているなんて、そのときも今も思いやしないけれど。
 世界は予定調和に満ちているように見えるが、そんなものは嘘だ。あるのは偶然の調和だけ。偶然の音楽だけ。その音楽を聞くために、生きるというので十分ではないか。

 最後のカード(ポッツィ)まで失ったナッシュは、はじめて、おそらくここではじめて、まったく自分の意志で、アクセルを踏み込んだのではないだろうか。
 幕切れは、突然の静寂。それまでずっと鳴り続けていた音楽が、ぷつんと途切れたようである。まるで、ナッシュの長い長い、楽しくて恐ろしい夢が覚めたかのような、鮮やかな印象が残る。

2002.1.18 『偶然の音楽』 ポール・オースター/柴田元幸 訳(新潮文庫) 読了


■ 2002.2.5 『メルカトルと美袋のための殺人』 麻耶雄嵩

 いまだかつて、これほど傍若無人かつあくどい探偵がいただろうか。
 それほど広くミステリーを読み込んでいるわけではない私が知る限り、およそ探偵という種族にはロクな男がいたためしがないが、そのなかでもメルカトル鮎の破綻ぶりは他の追随を許さない。
 それはホームズだって、辞書フリークでスクラップ魔でコカイン中毒で気障な台詞ばかり吐いていた。気障にかけてはポアロだって負けてはいないが、変人という意味では御手洗潔のほうが迷惑度は高い。本来、推理小説では良識派に属するはずの刑事にしても、フロスト警部のような無責任一代男が出現する始末。そういえばワトソン役にも最近はトラブルメーカーが多くて、西之園萌絵なんて、嫌がる探偵をいやがおうでも事件に巻き込む手腕にかけて右に出るものはない。それより許せんのは犀川先生を……おっと、閑話休題。

 まずタイトル。『メルカトルと美袋のための殺人』。
 なんたる自己中。どこの世界に、探偵と助手のために殺人を企ててやる謂われがあるだろうか。
 その上、この探偵ときたら、嘘はつくは身分詐称するわ盗聴するわ証拠をでっちあげるわ助手や容疑者を陥れるわ。メルカトル、やりたい放題。ワトソン役の美袋にしても、通常探偵助手に期待される「いい人」とはとても言えない。だいたい、探偵に殺意を覚える助手と、助手に殺意を覚えられる探偵なぞ前代未聞である。

 だが、考えてみれば、そもそも探偵なんてのは傍若無人なものなのだ。
 殺人現場に都合よく居合わせ、あるいは恩着せがましく登場し、捜査陣を質問攻めどころが命令することさえあり、思わせぶりな台詞を吐いては混乱を招き、「謎は解けた!」と叫んでそれぞれ個人的にスケジュールもあるだろう関係者を強引に一同に集め、少々ナルシスティックに演説をぶちはじめる。
 それもこれも、殺人があるからに他ならない。殺人事件があるから探偵が現れるのではない。探偵にとっては、探偵のために、殺人事件があるのだ。探偵というのは、推理小説の読者にも置き換えられる。
 超我儘で性格悪くて自己中なメルカトルは、そういう推理小説というものの一面を見事に露呈させてくれる。

「暇だからね。遊び相手が欲しいんだよ」(『小人闍処ラ不善』)

「最近、ユニフォームを替えようかと思っているんだ」(『水難』)

 退屈しのぎに自分の探偵事務所のDMを送る探偵の姿は、事務所で事件を待つ正統派ホームズ式ミステリーへの強烈なブラックユーモアに満ちている。『水難』冒頭のユニフォームに関する美袋とメルカトルの会話は探偵のスタイルに関するおちゃらけネタそのもの。
 ホームズシリーズだって、言ってみれば、ホームズとワトソンのための殺人なのだ。
 はじめに殺人ありき。私たちは、その危うい設定の上に、謎解きという一つのスタイルを楽しんでいるのだ。読者と探偵は共犯であることを、ゆめ忘れるな、と。

 ところで、白状すると、私はこの本を買って中表紙を見るまで、「美袋」の読み方がわかりませんでした。「みふくろ」とは読まないだろうなあ…と思いつつ、調べずにいたのですが……メルカトルにバレたら、ボコボコにされるに違いない。

2002.2.5 『メルカトルと美袋のための殺人』 麻耶雄嵩(講談社文庫) 再読


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