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よしなしごと09
■ 2004.9.9 『スズキさんの休息と遍歴』 矢作俊彦

 全共闘世代の現在を描いて怒涛の賛否を巻き起こした超弩級の話題作 という帯のアオリ。ネット検索してもわりに肯定的な感想が数多くヒットする。……のとうらはらに、私はさっぱり共感できずに終わってしまった。文章は上手いし、筆致もユーモラスなのでするすると読めるのだが、反比例して私自身はどんどん醒めていくのが自分でも不思議で、読み進みながら、なんで自分はこの小説にこんなにノれないんだろうってことばかり考えていた。で、結論。

<その1>
 全共闘に代表される「組織」が嫌いだ。胡散臭い。 組織、あるいは組織すること、組織でもってある目的を達成しようということ、それ自体が悪いとは思わないけど、「組織」されたが最後、構成員に対して人格的に(全…とまでは言わないけど、かなりの部分で)その「組織」とやらに忠実であることを暗黙的に求めるような体質が見え隠れしませんかね。どうも非営利組織にこのテの傾向が強いように感じる。さらにその結束のベースが、思想的な連帯なんていう、どうとでも捉えられるような胡散臭いものだったら尚更だ。学生運動の団体なんてその最たるものでしょ? 営利組織はよくも悪くも金の切れ目が縁の切れ目だから、まだ最低限ドライな部分があるのがいい。

<その2>
 説教くさいオヤジが嫌いだ。しかもアナクロニズムの権化ときては、実の父親だったらまず間違いなく私ならグレる。したがって、そんな親父のもとで、素直すぎるくらい素直に育っているケンタの存在が、信じ難く胡散臭い。そう、スズキさん以上に気に障って仕方ないのは、息子のケンタの存在だ。ケンタの薄気味悪さに比べれば、スズキさんなんて無邪気そのものだ。実を言えば私、素直な小学生なんて存在を信じていない。そんなものは架空の存在です。第一そんなこと、自分の子供時代を棚に上げてどうやって口にできるのかね。

 基準がまるっきり好き嫌いレベルだって? じゃ好き嫌い以外の一体何で本を選ぶの?


2004.9.5 『スズキさんの休息と遍歴』 矢作俊彦(新潮文庫) 読了


■ 2004.7.30 『魯迅評論集』 竹内好 編訳

 魯迅ほど中国の民衆の愚かさを憎み口を極めて罵倒しながらも、同時に叱咤し続け愛し続けた人はいない…って内容のことをどこかで読んだ気がするものの、どこでだか思い出せない。私が知っている中国文学者って竹内好と松枝茂夫と中野美代子と武田雅哉くらいなので、この中の誰かなのは確かだけど。魯迅の文章は確かに「辛い」と言うのではなまぬるい。厳しい。彼の「革命」だの「戦争」だのへの考え方に対しては多少異論があるけど、少なくとも彼の文章は、発言に命を賭けなければならない政情下で書かれたものだというところだけでも価値があると思う。

 私の文学を偏愛する顧客には一点の喜びを、私の文学を憎悪する連中には一点の嘔吐を与えたい――私は、自分の狭量はよく承知している。その連中が私の文学によって嘔吐を催せば、私は愉快である。(『墓』の後に記す)

 幻滅の悲哀は、虚が虚であるためにおこるのではなく、虚と実を取りちがえることからおこる、と私は思う。(中略) 幻滅のもとは、虚のなかに実を発見するからではなくて、実のなかに虚を発見する場合のほうが多い。日記体や書簡体は、書くのに便利な点はあるかもしれないが、幻滅感もおこりやすい。そして、ひとたび幻滅感がおこれば収拾がつかない。なぜなら、最初に真実というふれ込みだったからだ。(どう書くか)

 人が寂寥を感じたとき、創作がうまれる。空漠を感じては創作はうまれない。愛するものがもう何もないからだ。
 所詮、創作は愛にもとづく。(小雑感)

 幻滅に関する見解は、二千年以上にわたって史書やら公式文書やらを積み上げてきた伝統ある記録魔の国の人の意見としてすごく面白い。

 「どう書くか」には、日記体で読み手を意識した姿勢が透けて見えると、読者の幻滅を催させる破綻となるけれど、破綻を破綻と考えなければ(つまり最初から日記だと思わずに読めば)良いのだ、という内容が書かれているけど、それには全く同感です。そういう意味での文字で書かれたものの真実性を、私はさらに信用していないもの。どんなものであれ読者を想定しない文章はありえない。自分のためのメモでさえ、自分という読み手を意識して書くもんだ。そしてどんな文章も人間が書く以上、完全な客観性はありえず、従って完全な真実や事実が書かれた文章なんてのもありえないと思う。全くのゼロだとは思わないけど、100%だけは絶対にありえない。

 って前に人に言ったら、「大概やさぐれてるな」と言われた。そうかな?


2004.7.30 『魯迅評論集』 竹内好 編訳(岩波文庫)  読了


■ 2004.6.27 『二十世紀の十大小説』 篠田一士

 こんな面白い本を4年間も放っておいたなんて! 篠田氏が選ぶ二十世紀の偉大な小説に関するエッセーというか紹介文というか解説本です。でもこれこそ評論じゃない? とても易しい語り口で書かれているけど、そして小説の選択もそれに対する解説も、多分に著者の趣味嗜好が入り込んでいるけど、それぞれの作品のどこがどう好きで、どう凄くて、その存在がどういう意味を持つのかということを、きっちり説明してくれている。正直言って、篠田氏のラインナップは私の趣味とはあまり合わないけれど、それでも読んでみたいと思わせるところが凄い。解説で池内紀が、篠田氏の批評の姿勢について書いている。

「批評は作品への愛にはじまり、作品への愛で終わる」
 プロフェッショナルな批評家からせせら笑われそうな初々しい告白である。しかしながら、愛がなくては何事もはじまらないこともまた事実なのだ。プロ中のプロともいうべき批評家でありながら、篠田一士は高らかにアマチュアリズムを標榜してはばからなかった。(『二十世紀の十大小説』解説・池内紀)

 これがアマチュアリズムだっていうんなら、私はアマでいいや。小林秀雄の後に読んだのがさらにいけないんだな。同じ作品への愛を語っていても、小林秀雄は唯我独尊的。これが理解できないなら去れと言わんばかり。篠田氏にはもうちょっと大らかな愛を感じます。だって所謂「プロフェッショナルな批評家」だって、どうせ自分の好きな作品を好んで論じるわけじゃない? それに小難しい小理屈こねて、わからない人はシャットアウトって、随分怠惰な姿勢では。どうやってその作品の魅力をわからせるかってところが腕の見せ所だろうに。酷評するときも同様。

 何より凄いのが、篠田氏が取り上げた小説のほとんどについて、訳文だけでなくて原文にまであたっている(と思われる)こと。って文学者だったら当然なのかな? でもどう考えてもそうは思えない人沢山いるよね。

 篠田氏が選ぶ十冊は以下のとおり。

 ・『失われた時を求めて』プルースト
 ・『伝奇集』ボルヘス
 ・『城』カフカ
 ・『子夜』茅盾
 ・『U.S.A』ドス・パソス
 ・『アブサロム、アブサロム!』フォークナー
 ・『百年の孤独』ガルシア=マルケス
 ・『ユリシーズ』ジョイス
 ・『特性のない男』ムジール
 ・『夜明け前』島崎藤村

 このうち読んだことがあるのは『伝奇集』(でももうだいぶ内容を忘れている)、持っているのは『城』と『百年の孤独』。読んでみたいのは、『失われた時を求めて』と『U.S.A』と『アブサロム、アブサロム!』。『百年の孤独』は2年くらい前から積読リストに入っている。『ユリシーズ』はどうしようかなあ。手許に『フィネガンズ・ウエイク』があるんだが。『夜明け前』はまだ藤村に抜き難い先入観があって、何となく手に取る気にならない。『失われた時を求めて』なんか、どうしよう。読むんだったら一気に読みたいし。かと言って本文で紹介されているようにマッカラーズ女史のように無断欠勤でクビとか嫌だし。プルースト休暇取るしかないかね。でもやっぱり小説自体を読んでから、もう一回、篠田氏の解説を読んでみたいです。


2004.6.27 『二十世紀の十大小説』 篠田一士(新潮文庫)  読了


■ 2004.3.3 『僕はどうやってバカになったか』 マルタン・パージュ/大野朗子 訳

 とても面白かった。ほぼ一気読みした。でも、読み終わった後には、肩透かしを食ったような、何か物足りないような、もやもやした気分が残った。はっきり言わせて貰えば、不満だった。

 主人公のアントワーヌは、頭の良い、すこし考えすぎるきらいもあるけれど、愛すべき青年だ。パリ大学の演劇学の講師で、他に生物学とアラム語ができて、映画が好き。子供の労働力を使ったアジア製の衣服が買えない。マクドナルドに入れない。彼の友達、知人たちはみな独特の優しさを持った、良い人々で、アントワーヌは、自分が持っている「知性」が、楽に生きることができない原因だとして、「バカ」になろうとする。ここで言う「バカ」とは何者か?

「真実にはヤヌスのように二つの顔がある。今まで僕はその影の側で暮らしてきた。これからは、日向の側を歩く。理解することを忘れ、日常に熱中し、政治を信じ、きれいな服を買い、スポーツを観戦し、最新モデルの車にあこがれ、テレビのニュース番組を見て、いろんなものを大きらいになってみる……。僕はこういうことを知らずにきた。あらゆるものに興味を持ったけど、何にも熱中しなかった。いいとか、悪いとかは別にして、とにかくやってみる。そして分かち合いたい、そう、「世論」という名の大いなる精神を分かち合いたい。僕は他者を共にいたい、理解するのではなく、彼らと同じになりたい、彼らの中に入りたい、同じものを共有したい……」


 とても平たく言えば、現代資本主義・消費社会の一般的な大衆、というやつだろう。それを風刺するのはいい。使い古されたネタだけど、衆愚はいつだって風刺されてこそ、そこに衆愚が存在することが気づかれる。

 そういうわけで、アントワーヌは涙ぐましい努力をする。下宿を引越し、生活習慣を一変させる。大学を辞め、株式仲買人になって次々と大ヤマを当て、いわゆる「バカ」街道を爆走する。それを書き綴る文章はスタイリッシュで軽やかだ。ちょっとしたエピソードもファンタジックで可愛い。とぼけた味があって、するすると読める。

 けれど、それがいけない。なんとなく、この文章全体のトーンの優しさ、そしてどこか醒めたクールさから、きっと主人公は最終的に「バカ」から足を洗うんだろうな、と薄々予測がつくのはまあいい。だけど、足を洗うのが、彼の友人たちの悪魔払いの儀式によってで、アントワーヌ自身は何もせず、元の世界に帰ってくるというのは、あまりにもご都合主義というかなんというか。この小説全編が、おとぎ話を模していることは、すぐにわかる。悪い森に迷った主人公は、良い仲間たちが悪夢から引き戻してくれました。めでたしめでたし。

 で、何が変わったの? 「バカ」が跋扈する世界はそのまま変わらず存在している。「バカ」の世界に嫌気がさして、また自殺したくなるかもしれないし、アル中になりたくなるかもしれない。それとも、一度「バカ」のおぞましい世界を知ったから、「あれよりはいい」って思いながら生きていくということ? 「バカ」には「バカ」の世界がある。僕らは僕らの世界で、清く正しく生きていきましょう。それって、一種の引きこもりじゃないだろうか。

 別に、教養小説とか、世界を変えてやれとかいうテンションの高さを求めているわけじゃないけど、引きこもり万歳みたいなおとぎ話聞かされても、「良かったね」としか言いようがない。

 というのが、「バカ」としての言い分なんだけど。


2004.2.13 『僕はどうやってバカになったか』 マルタン・パージュ/大野朗子 訳(青土社)  読了


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