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よしなしごと10
■ 2004.10.11 『日蝕』 平野啓一郎 (※『鏡の影』 佐藤亜紀)

 文庫背面のアオリによれば三島由紀夫の再来だそうで、しかしこれのどこがそうなのかよくわからないけど(私は最初に、長野まゆみを連想した)、徹頭徹尾貫いた擬古文体には感心しました。ここまでこだわるスタイルがあるというのはよろしい。私はルビがついてないと読めない語句続出でしたけど。

 テーマ自体は錬金術に異端審問、賢者の石、アンドロギュノスとそう珍しいものじゃない。とは言え伊豆で踊り子と会って恋に落ちただけのことを叙情豊かに描写できるのが作家の能なのだから、筋立て自体にひねりがなくても価値がないってことにはならない。はっきり言えば私の好みには合わないけど、だからって駄作とまでは思いません。むしろ私の興味は、例の佐藤亜紀の『鏡の影』との悶着に関して、どのあたりがどう似てるわけ? というあたりにある次第で、こんな隠微な悶着のせいで不真面目な読者からこんな下世話な読まれ方するんだから、この一件では平野啓一郎も損をしたなあと思います。(とか言って我ながらまるっきり野次馬な書きっぷりですけど) 最初におことわりしておくと、私は『バルタザールの遍歴』からの佐藤亜紀ファンで、平野啓一郎は嫌いじゃないけど、心情的に大いにフィルタが掛かっているだろうことはご承知置きくださいな。

 で、結論から言えば、『薔薇の名前』と『鏡の影』の不完全燃焼版という感じ。そして思っていたより「まんまパクリって程じゃないじゃん」というのが正直な感想。『鏡の影』を読んでいれば、着想としてこの作品をベースにしただろうことは確かに感じ取れるけど、それ以上の一致点は感じない。挙げるとすれば、異界は寧ろ、この世界の裡に、その最も深く秘せられた所に存しているのではあるまいか。の辺りのくだり、この世界の別の層 というモチーフが同じかなと思った程度。程度、と言うのは、このモチーフが『日蝕』では作品の核心にまでなってこないから。『鏡の影』では、全世界を変えるにはある一点を変えるだけで十分である ことこそが作品の核心だけれども。それにしても、この作品でもって平野啓一郎を取って佐藤亜紀を切った新潮社は馬鹿だなあと思う。『日蝕』で価値があるのはあの独特の文体くらいとしか思えない。(そういう意味で三島由紀夫じゃなくて長野まゆみ) その文体にしても、「太陽の所為か。」 なんかにはちょっとくらくらしたけどね。『異邦人』?(笑) せっかくいろいろ面白いモチーフが盛り込まれているのに、展開はぶっちゃけ単純なオカルト話で、これのどこに「文学的探求」(これまた文庫背面のアオリ)があるのか、私にはさっぱりわからない。重層的な解釈が楽しめること、それに純粋なエンタテイメントとしての面白さでも、『鏡の影』のほうが(『薔薇の名前』も勿論)圧倒的に上でしょう。だから似てる似てないはもとより問題にならんのです。

 さて文体くらいしか、などと言ったけど、別にこれは悪いことじゃないと思う。大体人が本を……それ以上に作家を、と言ったほうがいいかもしれない……選ぶ基準の大部分は、おそらくスタイルだと思うからだ。

 そういう意味では平野啓一郎のこだわりは悪くない。先にも書いたとおりスタイルとしては大きな破綻もなく、少々ナルシスティックさが透けて見えるにしてもある美学に基づいたものだと言っていい。例えば、三島由紀夫や泉鏡花の愛読者かどうかは知りませんけど、ある読者層には確実に訴求するでしょう。ただし、『日蝕』に出てくるあの難しい漢字を全部、ワープロなしで書けるのかしらんという揚げ足取りな疑問はあるけれども。それにどこまでこの文体で通すつもりなのか不安ではある。これでドタバタとか書ける? ドタバタが極端でも、現代を舞台にした小説を書きたいときに、この文体を使う意味があるだろうか。(平野啓一郎の続刊を読んでないから、この点に関する評価はこれ以上できませんが) 文体を作品によってころころ変えるのは、よっぽど上手くやらない限りマイナスに響くと思う。だから何でも書ける普遍的な文体を持っている作家のほうが結局強いのだ。

 佐藤亜紀の文体もペダンティックと言われているけれども、実は彼女の文章に過剰な修飾はない。文中の描写で踏まえている文献や引用、バックグラウンドが浩瀚だから、そういう知識が全くない人間にはちんぷんかんぷんだし、出典が少しはわかるくらいの、ちょっとわかる人には教養をひけらかしているように見えるのかもしれない。多分、このちょっとわかるタイプに佐藤亜紀はとことん受けが悪い。シニカルで辛口(ドライ)な語り口の佐藤亜紀は、いくらでも修辞にくるんで、そのものずばりを文中を指示せずともある事物・事象を表現できる力がある一方、馬鹿を馬鹿と書くストレートさも持ち合わせていて、下手すると挑発的でさえある。(私が、へぇーへぇーと感心しっぱなしで読めるのは限りなく全くわからない方の読者に近いからです。でも全部わからなくても『鏡の影』は十分面白いですよ。そこが凄いんだけど) けど、こういうスタイルの作家は、少なくとも私は他に類型を知らない。『鏡の影』復刊版の解説に小谷真理が夏目漱石、辻邦生、堀田善衛、塩野七生の流れを汲むと書いているけれども、私はそうは感じないなあ。決定的な違いは、小谷真理自身も文中で書いている、佐藤亜紀作品に漲る「批評的な視点」だ。批評でなく小説にこの要素がある日本の作家を、私は今のところ知らない。(もしいたら教えてほしいとさえ思う。絶対ファンになるから)

 そう考えると、スタイルに関しても、読んでいて「擬古文」とか「泉鏡花」とか「三島由紀夫」とか、個人的には「長野まゆみ」(同意見の人がホントに見当たらないんですけど、そう思いません?)だとかいうイメージがすっと出てくる平野啓一郎のスタイルより、ちょっと比較できる対象が思いつかない佐藤亜紀のほうが、希少価値が高いと思いません?

 上でパクリかどうかは問題にならないと言ったことについて、最後にもう一つ。『日蝕』は『鏡の影』をベースにしたかもしれないけど、これだけ作風が違う作品間でテーマやモチーフが同じというだけで原作とパクリの二者択一を迫られるのなら、世の中の小説はほとんど、パクリってことになると思うけど。『ジャングル大帝』と『ライオン・キング』なんかパクリ度じゃもっと酷いし、『ヘビトンボの季節に自殺した五人姉妹』なんかタイトルを見た瞬間、葉蔚林の『五人の娘と一本の縄』を連想した。そしてこういう問題では、最終的なジャッジは結局作者でも出版社でもなく、読者がするのだ。類似する二つの作品があったら、優れたほうが50年後に残る。両方優れていたら、両方残る。両方駄作なら、両方消える。それだけのことじゃん?

 ちょっと興味があるのは、1999年に佐藤亜紀の『鏡の影』が絶版にならず、こういう余計な悶着もなく、平野啓一郎の『日蝕』とまっこうから比較されてたら、オフィシャルには一体どういう評価が下されてただろう、ってこと。(多分、今はこの微妙な問題のせいで、こんな比較を公の紙面でできる批評家なんかいないんじゃない? やっぱり50年後に期待かな)


 蛇足。
 小谷真理の『鏡の影』(ビレッジセンター出版局版)解説は上手いですね。余程腹に据えかねたんだろう佐藤亜紀が巻末にあからさまな新潮社との決裂の過程を載せているのにも関わらず、新潮社版『鏡の影』絶版の事実も書き、しかし新潮社後援の日本ファンタジーノベル大賞をきっちり持ち上げて、それでいて本作品と新潮社との関係には微塵も触れず、意図的な緘口の態度を取りながらも誰一人貶さない綺麗なまとめで感心しました。これって褒めてます。普通の評論家はこの手のいわくつきの解説なぞ引き受けたがらないだろう。



2004.10.11 『日蝕』 平野啓一郎(新潮文庫) 読了


■ 2004.9.20 『新教養主義宣言』 山形浩生

 実はご本人のサイトで本書に収録されているものの半分くらいは読んでたんだが、ネット上の長文読むのもかったるくて買ってしまいました。あとがきにもあるように、紙媒体の優位性はここらへんにあるんだろう。それでなくても私のPC付近は普段からキーボードにお茶やらせんべいくずやら撒き散らかしてて大変なことになっているもので。それにしても、サイトで横書きのを読むのと、本で縦書きになったのを読むのとで、ちょっと印象が違うのが不思議。縦書きになったほうが、文体の軽さが強調される気がする。横書きだと気にならないのにな。で、タイトルはアレですがつまるところエッセイ集で、それぞれ内容もあっちこっちの分野に飛ぶので全体的な感想はまとめにくい。内容は大体10年前〜5年前くらいまでのネタで、わからなかった部分もあるし、わかった部分にも個々の議論に賛否あるけど、まあ面白かったし、全部書くと面倒なのでピンポイント箇条書き。

 教育の目的というのはもちろんガキのみなさまに楽しくお過ごしいただくことじゃなくて、野放図なケダモノでしかないガキを枠にはめて、ちゃんと社会の歯車として機能するように家畜化してやることではあるんだけれど、…(後略)(『心ときめくミームたちを求めて』) 全くその通り。最近電車の中とか病院などで目にあまるガキの跳梁ぶりに遭遇することが多くて(しかも大体親付きだ)子供嫌いに拍車がかかる今日この頃。あ、でもここでの話は、その(教育の)プロセスをどうやって面白くするかってことで、家畜化しろって言っているわけじゃありません。むしろ逆。一応誤解なきよう。文部省や教育委員会はそのあたりを大いに誤解しちゃってる気がするけど。(だからやることが極端なのだ。徹底的な管理か野放しか。)

 蓮實重彦の文章(『手っ取り早い結論は諸悪の根源である』)は、でもやっぱり殺人的にワンセンテンスが長すぎると思うなあ。文庫本2ページがまるまる1文とか、もう見ただけで読む気が失せるもの。それを、式辞で……(合掌) 私なら倒れるな。早急に結論を出さないことやプロセスを重視することと、1文が紆余曲折して簡単に書けばわかることを小難しく書くことは全く違うことだと思うんだが。

 選挙権の売買(『選挙権を売ろう!』)はやってもいいなと思う。現実問題として、組織票なんてのが存在するので、水面下ではある程度行われてることだろうけど、それをおおっぴらにして市場を成立させてしまおうってのは面白い。ただ市場に流れた選挙権は重み付けを軽くするとか言うけど、それと本人が行使する選挙権をどうやって区別するの? それって結局のところ記名投票制導入ってことにならない?

 『リヴァーズ・エッジ』(岡崎京子)は未読(いまだにあまり読む気になれない)なのでわからないけど、『日出処の天子』(山岸涼子)の書評(『ニヒリズムと孤独と「もう一つの道」』)は名文だと思いました。もう一回読みたくなった。

 R.A.ラファティの『九百人のお祖母さん』は昔読んだはずなのに、さっぱり内容が思い出せない我ながら天晴れな健忘振り。タイトルも文庫の表紙イメージも鮮明に覚えているのに。私の文字情報の記憶ってかなり混沌としていて、こうやって内容も思い出せないようなのが、話すことや文章に無意識に出てきたりするから危険だ。大体、他人に指摘されるまで全く気づいていないか、どっかで読んだ内容(あるいは知識)なんだけど出典が思い出せないフラグメント状態になっているかのどちらかだ。これって、血肉になっていると思っていい、の…かな?(いや単に記憶力の問題)



2004.9.20 『新教養主義宣言』 山形浩生(晶文社) 読了


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