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よしなしごと11
■ 2005.3.17 『ニューロマンサー』 ウィリアム・ギブスン/黒丸尚 訳

 極私的SF強化月間……のはずだったんだが早くも脱線の兆しが。いや、だってだって。サイバーパンクの古典だとか何だとか言われてますが、この作品、読みながら頭をぐるぐるしていたのはただ一つ。これはひょっとしてアレなんじゃないか。つまり映画『MATRIX』。

 何を隠そう私はあれだけ騒がれた『MATRIX』三部作を観ていない。(あれだけ騒がれた『キルビル』も実は観てない。じゃ一体何観てんだって感じだけど、変なのはよく観てるんだよなあ。)それでも人づてに聞いた話とかで、大体の雰囲気はわかっている……と思う。で、この小説に出てくるのが近未来のハッカーたち「カウボーイ」、脳とコンピュータを直結させて視覚化したヴァーチャルな電脳空間を駆け抜ける。その電脳空間が「マトリックス」。凄腕のカウボーイから自業自得の過ちで転落した主人公「ケイス」(よく読むと黒髪らしい)を、巨大AIとの勝負に引きずり込むのは黒づくめの衣装にグラスを目元に埋め込んだ黒髪の美女「モリイ」。その雇い主にみえた「アーミテジ」は無機的に整った容貌に長い黒いトレンチコート。これってあの「マトリックス」で「ネオ」で「トリニティ」で「エージェント・スミス」なんでは? ついでにザイオンなんてのも出てくる。これが『MATRIX』の原作だなんて話聞いたことないけど、整合しすぎ。こういう全てが気になって気になって堪らず、読み終わって早速『MATRIX』DVDで借りてきました。なんか知らんが202分もあるから週末に観ます。ああもうドキドキだ。

 あ、小説? スリリングでした。面白かったかどうかは、正直わからない。何故なら読み終わった今でもストーリーがあまりよくわからないからだ。何の説明もなしに特殊な用語やコードが飛び交い、場面が転換する。唐突に切り替わった場面が現実世界なのか電脳空間なのかも全く説明されない。確かに状況説明の全くないまま、どんどん深みにはまってしまうこの感じは、よく知らないコンピュータを使うときの感じと酷似している。システムが暴走して真っ黒なディスプレイにわけのわからないデバッグメッセージが延々吐き出されるのを猛烈に焦りつつも呆然と見る気分というか。何が起こっているのかよくわからないまま、ぐいぐい引きずられてイメージとコードの奔流を疾走する感覚。スピードの分、細部はわからない。でもこのコードとイメージが実にきらめくように鮮やかなのだ。ICE、水平線(フラットライン)、没入(ジャック・イン)、離脱(ジャック・アウト)、転じる(フリップ)、冬寂(ウィンター・ミュート)……すごく夢中になってその世界にシンクロするように、それこそ没入できるんだけど、結局なんだったんだろうっていうこの感触を上手く言い表せないなあと思っていたら、山形浩生がギブスンの最新作(?)『パターン・レコグニション』の書評ですごく的確に表現してくれていた。

 ギブスンの十八番は、ある空間の質感を描き出す能力だ、とぼくは述べた。(中略)読み終わったぼくたちの脳裏には、ストーリーなんかあまり残っていない。結局、例の映像の作者ってだれだっけ? それがロシアのマフィアとなんでからんでいたんだっけ? たった一日のうちに、ぼくはもう忘れてしまっている。でも、その世界とその感触だけは、その異様な、だがおなじみの現在だけは、本を閉じた後もぼくたちとともにいつまでも残り続ける。("『ニューロマンサー』現在形。", 山形浩生, 『CUT』2004年7月)

 ところでザイオンてのはよく近未来ものやSFもので使われますね。でもこれってZionで、シオンで、イスラエルのあの曰くつきの場所ですよね。悪の拠点に使われていることが多いような気がするけど、いいのかなあ。そういえば、最近、ガンダムのジオンもZionだって気づいた。ちなみにカイ・シデンさんは紫電改のもじりだって今頃気づいた。遅いって……。

 ついでに『MATRIX』 (DVD)の感想。(3/20日記転載)
 観たまんま、日本アニメオタク&カンフー映画フリークが作ったハリウッドアクション映画。なんか謎が多いようなことを聞いていたわりには、すごくわかりやすかったと思う。『ニューロマンサー』に比べれば全然単純だ。善悪の陣営がはっきり分かれているし、場面ごとに仮想世界は仮想世界だと最初に断っておいてくれるし。あ、アーミテジはどっちかと言うとエージェント・スミスじゃなくてモーフィアスですね。途中で冒頭の不思議の国のアリスのモチーフがどっか行っちゃうのはご愛嬌。こんなこと書いているとすごく白けた感想のようですが、いや面白かったですよ。これは映画館の大スクリーンで観たほうがいい種類の映画だと思う。主役は東洋系のキアヌだし、スクリーンに流れるコードはカタカナ(しかも半角!)だし、まんま格闘ゲームのシーンがあったりと、監督の和製オタクっぷりも楽しめます。しかし、なんて無駄弾の多い映画なんだ!(笑) あ、そこがハリウッドなのか。



2005.3.16 『ニューロマンサー』 ウィリアム・ギブスン/黒丸尚 訳(ハヤカワ文庫) 読了


■ 2005.1.22 『ドグラ・マグラ』 夢野久作

 解説になだいなだが何でもないことのようにあっさり「探偵小説」なんて書いていて、探偵小説だったのこれ? と首をひねりながら読んでいたけど、確かに後半はちょっと探偵/推理小説っぽかった。ちなみに探偵小説と推理小説ってどう違うんですか? 本格とか本格じゃないとかもよくわからないんだけど。っていうのは置いといたとして、強烈なインパクトを受けるものの、諸手を挙げて殿堂入りにはできないのが微妙なところ。スゴイ! とは思っても、手放しで好きだとは思えないタイプの小説だ。角川のアオリ文句がまた凄い。<これを書くために生きてきた>と著者みずから語り、十余年の歳月をかけた推敲によって完成された内容は、狂人の書いた推理小説という、異常な状況設定の中に、著者の思想、知識を集大成する。これを読む者は、一度は精神に異常をきたすと伝えられる、一大奇書。……なんか一昔前の、「これを読んだらあなたは…」式の不幸の手紙みたい。ネットでちょっと検索した限りでは、角川は昔からこのアオリらしいですね。

 狂人の視点ということになっているけど、主人公(一応…)の「私」よりも正木教授や若林教授のほうがずっと狂気じみている。特に、自分の精神医学の実験のためにモルモットのように人を操り、どんな犠牲を出しても平然としている正木教授は、まるで『地獄変』に出てくる絵師みたいだ。その狂える絵師のような正木教授が、死美人の狂気に取り憑かれた絵師・呉青秀の呪いを呉一郎で実証しようするという、合わせ鏡のような入れ子構造。小説の最後で「私」は精神科病棟の自分の部屋に戻り、冒頭にもあらわれた時計の音で小説が締めくくられる。つまりこの時計の音でここまで辿り着いた幻想はまた冒頭に戻り、「私」はまた自分が誰だかわからない状態で部屋で目を覚まし、これまでの幻想を最初から繰り返すかもしれないという、円環構造。

 劇中劇というか作中作というかが入り乱れ、その場面が誰の視点で夢なのか現実なのか、妄想なのか幻覚なのか、あるいは法螺なのか、徹底的にわからないように書いてある。きっとよくよく読めばあちこちにヒントが隠されているんだろうけど、それを探すにはあまりにも作中作が膨大すぎて、粗捜しするにはかなり気力がいる。現に私は投げました。この徹底的に入り組んだ構成、こうやって読者に重箱の隅つつきを諦めさせるためのものだとしか思えない。例の「ちゃかぽこ」で有名な外道祭文なんか、読んでていい加減うんざりする。無限に続きそうで目眩がしてきます。おそらく約半数がここで脱落すると見た。これがすべては読者を引きずり回し、煙に巻くための布石なんだからもう恐れ入ります。そのうちに、その手を食ってたまるかという、よくわからない対抗心が湧いてきて、それでなんとか最後まで読めたようなもんです私。

 手放しでお薦めはしないけど、最近のゴシックミステリやホラーは刺激が足りんと思う御仁は是非チャレンジされると良いでしょう。怪奇幻想エログロなんでもあり。しばらく脂モノはいいやと思うことでしょう。



2005.1.21 『ドグラ・マグラ 上・下』 夢野久作(角川文庫) 読了


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