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『黙示録論』 D.H.ロレンス/福田恒存 訳(ちくま文庫)

 テーマが深遠すぎて一回読んだくらいではおいそれと感想がまとまらないんですが、さりとて何も書かないと忘れてしまいそうなので、現時点での印象と印象的だった部分だけ覚書として抜書きしておくことにします。

 副題が『現代人は愛しうるか』になっていて、結局ロレンスはキリスト教の経典の一つである黙示録(外典なんですっけ? このあたり知識不足過ぎて手も足も出ない…)を取り上げて、キリスト教の教義にさえ忍び込んでいる人間のエゴイスムを批判しているのかな、と思う。ほかでもない、まず私の本能が聖書に憤りを覚えるのだ(第一章)、と言うロレンスの論調は全編を通じて激越でさえあって、キリスト教文化圏で育ち、自らキリスト教がすっかり浸透していると言う西洋人が、どうやったらここまで激しくキリスト教を否定する気持ちになるのか、論の内容はともかくとしてちょっと不思議ではある。解説で高橋英夫が書くように、同属嫌悪なのかなと思わないでもない。

 ロレンスは「ヨハネの黙示録」を、抑圧が生んだ、歪んだ自尊と復讐の書だと言う。確かに本書の巻末に「黙示録」が参考文献としてついていて、一応ひと通り読んだけれども、話に聞いていた以上におどろおどろしくて意味不明だった。最初は世界観の物珍しさも手伝って読み進んでいたけど、途中からかなりうんざりしてきて読み飛ばし放題。

 人間には、強い人間と弱い人間の二種類がいて、黙示録は弱者・貧者の宗教だとロレンスは言う。

 イエスは貴族主義者であった。使徒ヨハネもパウロもそうだった。大いなる優しさと穏和と没我の精神――強さからくる優しさと穏和の精神――をもちうるためには偉大なる貴族主義者たらねばならないのだ。民主主義者からときおり期待しうるものは弱さからくる優しさと穏和にすぎない。それは似て非なるものである。 (第二章)

 ここで言う「民主主義者」というのは、機会の平等と絶対的な富の平等を区別できない考え方のことを言っているのかな。つまり、常に「平等」の名の下に発生する悪平等の問題。

 ここにおいて、宗教は、殊にクリスト教は二元的相貌を具えることとなった。強者の宗教は諦念と愛を教える。が、弱者の宗教は強きもの、権力あるものを倒せ、而して貧しいものをして栄光あらしめよと教えている。 (第二章)

 吾々はクリスト教的恐怖感をあくまで憎まざるをえぬ。それは、そもそもの出発点から、己れにそぐわぬものをことごとく否定すること、さらにいえば、それを抑圧することをもってその方法としてきた。(第六章)

 隣人を愛せよという宗教がどうしてあれほど血なまぐさく、時に不寛容で押し付けがましいのか、これまで素朴に不思議だったんだけど、これだけでその説明になるとは思わないけど、西洋人でさえこう感じるのかというのはちょっと驚き。

 このあと、黙示録の各章の内容について、それが指し示す復讐的意味合いを解釈していって(個人的に、キリスト教以前の宗教とキリスト教における「龍」の意味合いを論じる十六章は白眉だと思う)、最後の二十三章で突然展開されるロレンスの結論はちょっと流れからして唐突な気もする。けど黙示録(つまりキリスト教)を引き合いに出してロレンスが言いたかったことは、きっとこの最終章に凝縮されているんだろう。で、結局ロレンスの結論は、個人、クリスト教徒、民主主義者は愛し得ぬというのだ。(第二十三章)

 結論は箇条書きになっているという、西洋人的親切設計。<いやこれほんと、そう思います(笑)

(1)この世に純粋な個人というものはなく、また何人たりとも純粋な個人たりえない。(第二十三章)

(3)国家は絶対にクリスト教的たりえない。あらゆる国家はそれぞれ一つの権力である。それ以外でありえないのだ。あらゆる国家はその国境を守り、その繁栄を保たねばならぬ。その点に欠くところがあるならば、それは国内の公民を一人一人裏切ることになる。(第二十三章)

 この点にだけは大きく頷かせてもらう。そういう意味では、日本はまさに非キリスト教的、非西洋的国家だと言えますね。(西洋の基準でいう近代国家に当てはまらない、と言ってもいい。)

 諸君は諸君の隣人を愛する。が、たちまちにして相手に己を絞りとられる危険に遭う。諸君は退いて、自己の拠点を死守せねばならない。愛は抵抗となる。やがて最後にはただ抵抗のみが残り、愛情は消滅する。これが民主主義の歴史である。(第二十三章)

 じゃあどうすればいいんでしょう、という疑問には、クリスト教徒、個人、民主主義者としての虚偽の立場をかなぐりすてようではないか(第二十三章) 、というのが最終結論でしょうか。ここへきて、ロレンスの苦悩がなぜ言葉の上では理解できても、実感として根底から突き動かされはしないのかわかった。ロレンスの言う「個人」「民主主義者」あるいは「近代人」は、キリスト教文化圏における「個人」であり、個人主義であり、民主主義なんですね。日本には近代以降、個人主義や民主主義が輸入されてきたけど、そのベースとなるキリスト教は日本で血肉とはなっていない。だから、大部分においてキリスト教がぴんとこないであろう日本人は、これまでロレンスのいう純粋な「近代人」であったことはかつてないし、これからもないだろうという気がする。逆にその上っ面だけを輸入して、より恥曝しな愚行をしでかしてきた可能性はあるけれども。だから、日本人に適用して「個人主義」や「民主主義」のあり方を考えるには、また別のアプローチが必要かなと思います。

 とりあえず、現時点での印象。忘れた頃に再読しよう。


(2005.5.13)


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