イゼルローンのタコ部屋。

銀河歌声喫茶 Vol.7

Time after Time

ベッドに横たわって時計がチクタクいうのを聞きながら
君のことを考える
考えはぐるぐると混乱して
それもいつものこと

フラッシュバックする―――君との暖かい夜
それももう過ぎたこと
スーツケース一杯の思い出も
もう――

ときどき君は私を思い出すでしょう
私は先に歩きすぎていて
君は私を呼ぶけど、私には聞こえない
君が何を言ったのか
そうしたら君は言ったね、もっとゆっくり、って
私は追いつかれて
秒針が巻き戻る――

道に迷ってしまっても、周りを見回して――君は私を見つけられる
何度でも
君が倒れてしまっても、私が受け止めてあげる――待っていてあげる
何度でも

君の中から私の面影が消えて、暗闇が薄明に変わってから
窓の外を眺めながら――君は
私が元気かどうか考える
秘密が心の奥底から掠め取られて
ドラムが狂ったビートを叩く

道に迷ってしまっても、周りを見回して――君は私を見つけられる
何度でも
君が倒れてしまっても、私が受け止めてあげる――待っていてあげる
何度でも

道に迷ってしまっても…
君は言ったね、もっとゆっくり、って
私は追いつかれて
秒針が巻き戻る――

道に迷ってしまっても、周りを見回して――君は私を見つけられる
何度でも
君が倒れてしまっても、私が受け止めてあげる――いつでも待っていてあげる
何度でも

道に迷ってしまっても…
何度でも
何度でも

(Cyndi Lauper & R. Hyman/訳:巽堂)
"Twelve Deatly Cyns ... and then some" Cyndi Lauper (Sony Records Inc.,1994)

ラインハルトとキルヒアイスに。アンネローゼでもいい。

シンディ・ローパーの大ヒット曲。素晴らしいバラードです。大好き。

この超名曲を訳すなんて(しかも腐れネタにするなんて…)我ながらいい度胸だと思いますが、意識的に変えたのは大抵「あなた」と訳されている二人称を「君」にしただけ。あとはかなり気をつけて原文に忠実に訳した……つもり。この詞の良さは原文を歌で味わってもらったほうがいいと思うので、あえて訳文を無理に補って雰囲気を出さなくていいかな、と。

ここからは無駄口なので興味ない方は流してください。私は前々からこの曲の一般に流布している訳がどうにも腑に落ちませんでした。上の「君」を「あなた」に読み替えてもらうとわかりやすいかもしれないけれど、そうするとコーラス部分の台詞、

道に迷ってしまっても、周りを見回して――君は私を見つけられる
何度でも
君が倒れてしまっても、私が受け止めてあげる――待っていてあげる
何度でも

がそのまま歌い手の台詞のように読み取れるし、そういうふうに解釈して女言葉で訳したものしか見たことありません。つまり歌い手の「私」=コーラス部分の「私」。まあ普通に考えたら女性のモノローグだから、そう考えるのが自然なのかもしれませんが、これが文脈的にどうもしっくりこない。第三パラグラフまでは確実に歌い手「私」のモノローグです。そこで「私」は先に歩いてしまって、「もっと、ゆっくり」と、おそらく恋人の男に言われる人物なんですね。そういう歌い手が「待っていてあげる」と言うのはなんかヘンな気がする。

さらに私はこの曲のビデオクリップを見たことがあるんですが(これもとても良いクリップです)、そこではシンディ扮する女性がスーツケースを持って恋人の元から出ていく姿が描かれています。恋人の男は駅まで彼女を送って、列車に乗る彼女を見送ります。とすると、やっぱり先を歩いているのは「歌い手(=女性)」としか思えない。このコーラス部分は恋人の男性が彼女に言った台詞じゃないか? それを歌い手が思い出して歌っている、という設定なんじゃ? と思うわけです。「秒針が巻き戻る――」は過去の声がフラッシュバックしているのを示しているとも解釈できる。このコーラス部分にだけ男性コーラスがシンディの声に重なっているのも、こう考えるとすごく腑に落ちます。

牽強付会かな。でも私はこう考えてすごく納得したんでした。無駄口終わり。

はい、では妄想変換いってみましょう。歌い手=ラインハルト、恋人の男=キルヒアイス(もしくはアンネローゼ)。キルヒアイスの死後と考えると一層切ないですね。どうもラインハルトには微妙に感情移入しにくいんですが、キルヒアイスに関しては彼は十分過ぎるほど報いを受けたと思います。その後ラインハルトに死ぬまでつきまとう喪失感は見ていて本当に痛々しい。

(2005.5.21)



<銀河歌声喫茶に戻る
TOPMAP

巽堂/Tatsumidou