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よしなしごと05
■ 2002.1.15 『ノスタルギガンテス』 寮美千子

 まるで詩のような一篇だった、と言うのは簡単だ。
 では、詩と散文とはどう違うのかと聞かれると、確信を持って答えられない。
 仕方がないから、辞書を引く。以下、大字林第二版から引用します。


し 【詩】

(1)文学の形式の一。一定の韻律などを有し、美的感動を凝縮して表現したもの。内容的にはギリシャ以来抒情詩・叙事詩・劇詩に大別され、近代にはいって定型を廃した自由詩・散文詩が盛んとなった。
(2)人の心に訴え、心を清める作用をもつもの。また、詩的趣があるさま。「彼の生き方には―がある」
(3)(和歌・俳句に対して)漢詩のこと。


 よくわからない。では、散文とは?


さんぶん 【散文】

韻律・字数・句法などに制限のない通常の文章をいう。小説・随筆・日記・論文・手紙などに用いられる文章。


 なるほど。では逆に散文的でない文章というのは?


いんぶん ゐん― 【韻文】

(1)(漢詩・賦など)韻を踏んだ文。
(2)(詩や和歌・俳句など)韻律を整えた文。⇔散文「―体」


 韻とは?


いん ゐん 【韻】

(1)詩文で、同一もしくは類似の響きをもつ言葉を、一定の間隔あるいは一定の位置に並べること。
(2)漢字音で、頭子音を除いた他の部分。韻母。
(3)同一の韻母、または類似した韻母をもつ漢字を分類したもの。中国の韻書における漢字分類の単位。⇔音


 音とは?


おん 【音】

(1)おと。「響きのよい―」
(2)人間が言語として使うために口から出すおと。言語音。
(3)日本での漢字の読み方のうち、漢字音。字音。⇔訓「―で読む」→漢字音
(4)中国における漢字の音声のうち、語頭子音。⇔韻
(5)音楽。


 口ずさむ音楽なら、それはうただ。


うた 【歌・唄・詩】

(1)言葉に旋律やリズムをつけて、声に出すもの。また、その言葉。《歌・唄》「―を歌う」「はやり―」
(2)和歌。特に、短歌。《歌》「―を詠む」
(3)近代・現代の詩。《詩》「初恋の―」


 これならしっくりくる。『ノスタルギガンテス』の文章は音楽的なのだ。言葉そのものが響くようである。
 詩が、そもそもは言葉を声に出す歌ならば、自作を朗読する寮美千子のスタンスはまさに詩人のあるべき姿とも言える。朗読にたえる文章というのは貴重だと思う。


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 文章を書くために言葉を連ねていると、どうしても自分が思っていることそのものを表現できなくて途方にくれることが多い。
 時には、書き進めているうちに、思っていることと全然違うことを書き連ねてしまっていることがある。自分にとって気持ちのよい文章のリズムを追いかけているうちに、いつしか自分の気持ちと文章の内容が乖離してしまうのだ。
 はたと止まって、困った、と思うのだが、そこが私のいい加減さで、これはこれで面白いからと、そのまま言葉の調子を取ってしまうことが多い。どうしても気に入らなければ、書くこと自体をやめてしまう。だから、私の書く内容はすべて、朝顔の観察日記であれ、システムの障害報告書であれ、ノンフィクションではない、と思う。

 そもそも、厳密な意味でのノンフィクションなど、言葉で構築された世界にありうるだろうか。純粋な客観なんてものが、人が書く文章のなかにありうるだろうか。
 例えば、朝、はじめて外に出て見る空の色、外気の温度、湿度、風の匂いは、一日たりとも同じではない筈だ。それを、「〇月×日 晴れ」と書く。その瞬間、肌で感じた朝の天気は、ただ一個のイメージ「晴れ」でしかなくなる。それも、人それぞれで違うだろう、一個の「晴れ」に。
 ある定型のスタイルを身にまとうことは、ひとつの分類に身を投じることだと思う。分類できることは、安心できる。名前をつけて、自分の知っているモノに変換すること。それは、確かにひとつの安定をもたらすに違いない。
 しかし、その安定を受け入れられない感性というものまた、存在する。普段、無意識にその安定を受け入れていても、ふと自分が描いた文章に対して違和感を感じるときや、自分の知っていることについて書いた他人の文章を読んで違和感を感じるときなどに、不意にその感覚を持つことがある。『ノスタルギガンテス』の主人公・櫂は、もっと意識的に、根本的に、この安定と相容れない。


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 前の『マシアス・ギリの失脚』とは対照的な物語を読んでしまった、と思う。
語る=イメージを言葉にして世界を構築すること、と私は解釈しているけれど、それを豊かに成功させたのが『マシアス・ギリの失脚』だと思う。この小説は、言葉で想像力のなかに美しい島を作り上げた。

 だが一方で、言葉は一人歩きする。噂が噂を呼び、デマが形成されるのは、この作用によるのだろう。
 あるいは、ものごとをあるイメージに縛り付ける。名前をつけることは、曖昧なものに形を与えて、整理しやすく、理解しやすくするけれども、同時にそれをひとつの定型に嵌め込んでしまうことでもある。極論すれば、それはレッテルを貼って、標本のように展示することになる。それを、櫂は「死んでしまう」と表現したのだろう。

 このお話の中では、本物と偽物ということが強く意識され、対比されている。櫂は自分の住んでいる街を、ジオラマのようだと感じる。博物館に展示されたミニチュアの自然は皆偽物だ、と言う。その櫂が唯一好きなのは、化石の展示である。化石は標本であり、言うなれば死体だ。櫂も、ミニチュアの偽物と比較してではあるが、分類された本物の標本に安心してしまう。
 だが、あくまでもそれは、死体だ。だからこそ、櫂はなかの自分の世界を言葉にしてしまうことでイメージが流出し、形を変えていってしまうことを恐れたのだろう。それは自分の世界の死であり、形を変えて現れたものは彼にとっては偽物だからだ。
 私たちは、わかりもしないものに、無意識のうちにレッテルを貼って安心してはいないだろうか。それで、わかったつもりになっていないだろうか。

 言葉で伝えるということの力と限界を、強く意識させられる作品である。詩のようだ、と表現することさえ、この本を読んだ後では、本当にそうなの、本当にそう思うの、それがどんなものだか知っているの、と問いただされる思いがする。



 ――――――――それでも私たちには、言葉しかなく、言葉だけがある。





この文章は、『ぐうたら雑記館』もろやんさんの書評「文学の境界線」から、多大な影響を受けました。
『ぐうたら雑記』で読むことができます。
感謝とともに、ここに出典を記させていただきます。


2002.1.10 『ノスタルギガンテス』 寮美千子(パロル舎) 読了


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